2007年6月3日(日) 普喜牧師による説教
マタイ28:16−20「弟子作り」(Making Disciples)
これから3回にわたって、みなさんにぜひとも理解し実行していただきたい大切な聖書の教えについてお話いたします。
今日のマタイ伝28章の最後のところは、復活したイエス様が最後に弟子たちにどうしても言っておきたい大切な命令をなさいました。この大切な命令とは、何なのか、どういう内容なのかということについてみなさんといっしょに学んでみたいと思っています。
では、今日の箇所を読んでみましょう。
28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
今まで、イエスの弟子たちは、イエス様を単なる先生とか将来王様になるべき人間ぐらいにしか考えていませんでした。
それが復活によって神の力を知り、イエスキリストが天においても地においても一切の権威を持っている神であることがわかったのです。
弟子たちは、復活によって今までなかった態度の変化を見せました。
イエス様を礼拝するように導かれたのです。
人間を礼拝するということ、唯一の神以外に絶対に拝まないユダヤ人にとって、きわめて異常な態度でした。
けれども、イエスキリストが死を克服した方であり、一切の権威を持っている神であることを認めることができた時に、弟子たちの態度は、礼拝へと変えられていったのです。
弟子たちの中には、イエスが神であり、復活が本物であることを疑った者もいました。でも多くの弟子が、もうこの段階では、イエスが神であり、復活が本物であることを信じるようになっておりました。
多くの弟子たちが、イエス様をすべての権威を持つ神として礼拝するように心が変えられていったようです。
みなさんはいかがですか?みなさんはもうイエス様が本当に死からよみがえられ、一切の権威を持っている神として信じ、イエス様を礼拝することができますか?
19節に「それゆえ」という言葉があります。
イエスキリストが、単にイスラエル民族だけの権威者ではなく、全世界のユニバーサルな権威者であるという認識へと弟子達のイエス様に対するみかたが変化していきました。
イエスがユニバーサルな権威者であるという認識に立つと、単にイエスがイスラエルという地域に限定されたイスラエル民族の王という認識から、全世界を支配しておられる神であるという認識へと変化が起こってきます。そして、イエス様が全世界の支配者である神なのだ、ということが判ると、それは全世界へのユニバーサルな伝道へと私たちを駆り立てます。
何故日本人にまで伝道する必要があるのでしょうか?何故日本人がイエス様を信じる必要があるのでしょうか?それはイエス様は外国の宗教の創始者ではなく、日本人をも治めておられる誠の神であられるからです。
何故民族を問わず、アメリカ人も日本人も白人も黒人もだれをも受け入れなければならないのでしょうか?それは、イエス様は、すべての人の神であり、イエス様を受け入れた人は、すべて主にあって兄弟姉妹だからです。
19節から20節の前半までを見てみましょう。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
これは有名な「宣教の大命令」(the Great Commission)と呼ばれている箇所です。
このイエス様の宣教の大命令を守らなければ、教会は栄えません。外に働きかけて伝道しなければ、教会は成長しません。
JCFもこのみ言葉を守り、これを実行しようとしています。
JCF教会の憲法には大切なミッションステートメントがあります。これを御紹介します。
MISSION STATEMENT
Our mission, or the reason for being is to serve the Japanese community in Michigan and to make disciples of many peoples who will follow Jesus in authentic worship.
私たちのミッション、すなわち存在理由は、ミシガンにおける日本語を話すコミュニティーに仕え、多くの人々を真の礼拝においてイエス様に従うことができるような弟子にすることにある。
このミッションステートメントの後半は、今日のマタイ28章の表現、to make disciples という宣教の大命令に基づいています。つまり、JCFは、マタイ伝28章の宣教の大命令を実行するために存在しているのです。
さて、きょうの箇所でいくつかの命令があります。
1、 行きなさい。
2、 弟子としなさい。
3、 バプテスマを授けなさい。
4、 教えなさい。
この4つの命令のうち、どれが一番大切な命令だと思いますか?
この質問は、元のギリシャ語を知らないと答えられません。
「弟子を作りなさい」だけが本動詞命令形で、あとの「行きなさい」と「バプテスマを授けなさい」と「教えなさい」は分詞(英語でいうとingの形)で書かれています。「行きなさい」まで元のギリシャ語ではing形で書かれているのです。
この文で一番強調されていることは「弟子を作りなさい」という命令です。
弟子作りの内容や性格、特徴の説明が二つあります。
それは第一に、バプテスマを授けるということ、つまり伝道することです。
第二に、教えること、つまり教育することです。
この中にイエス様をまだ信じていらっしゃらない方がいます。その方がなすべきことがあります。
イエス様の弟子になることです。弟子になるとはクリスチャンになることです。
イエス様を信じてイエス様の弟子になり、バプテスマを受けてイエス様の命令を守って生きること、これが神の前で人間として生きる正しいあり方なのです。
イエスキリストの弟子になった者、つまりクリスチャンになった人がすべきことが二つあります。その人にも同じくイエス様の命令があてはまります。
第一は、その人はバプテスマを受ける必要があります。
第二は、キリストの命令を守るための弟子訓練を受ける必要があります。
バプテスマとは、弟子になった者が受けるバプテスマであります。まだ弟子になっていないものにバプテスマを授けていいとは書いてありません。バプテスマとは、自分の罪を悔い改めてイエスキリストを信じてキリストの弟子になった者が、その信仰を公に告白するという意味があります。
バプテスマを授けるという言葉はバプティゾーという動詞で、キッテルとかバウワーとかセイヤーとか、どんな辞書を見ても、その意味が浸す(to dip, to immerse, to plunge, to sink, to drench)であると書かれています。
「洗う」という意味もありますが、浸すことなく洗うという意味ではありません。
「どっぷり水につける」ということ、これが「バプテスマを授ける」ということばの本来の意味であります。
「ディダケー」という2−3世紀に書かれた著書を見ますと、水があまりない場合、略式の方法で滴礼という水をかける方法があったことは確かですが、バプティゾーというギリシャ語の元の言葉の意味は、浸すということでありました。
マタイ伝28章では、弟子になることがバプテスマを受けることと関係させて語られています。
マルコ伝1章4節やルカ3章3節では、バプテスマは罪の悔い改めと関係づけられています。
結局、罪を悔い改めてキリストの弟子になることなしには、バプテスマは考えられません。
そして通常バプテスマは、父と子と聖霊の三位一体の神の名前で授けます。
おもしろいことに、父、子、御霊は三つですが、「御名」という言葉は単数計で書かれています。
聖書には、まだ三位一体の教理がはっきり書かれてはいませんが、父と子と聖霊が一つであることがここからも暗示されています。
「御名によって」の、「よって」という言葉は、もとの言葉では「…の中に」(eis)(into)という前置詞が使われています。これは新しいクリスチャンが正式に神の所有になり、主キリストとの交わりの「中に」入り込み、神の家族の一員に正式に入り込むことを意味しています。
バプテスマは、伝道のクライマックスであり、完成の時、収穫の時です。
でも、イエスキリストの弟子になった者は、バプテスマを受けただけでは済まされません。
イエスキリストの教えが何であるかを知り、その教えに服従するように弟子訓練を受ける必要があります。
権威あるイエス様の命令に心から服従する従順さがなければ、よい弟子になることはできません。
イエスキリストは、いろいろな命令をしました。「全世界に出て行ってすべて作られたものに福音を伝えなさい」という伝道の命令をしました。ですから伝道できるように、訓練を受ける必要があります。
またイエス様はおっしゃいました。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ですから、人を裁いてばかりいないで、互いに愛し合い、愛を実行する教会になる必要があります。
外に向かって伝道しなければ、イエス様の弟子としてふさわしいことをしていない、と言えます。
またイエス様はおっしゃいました。「わたしがあなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。」つまり互いに仕え合うことの命令をされました。
昔ある教会の役員さんの中に、自分は伝道はできないしする気もないのに、いばっていて仕えることをせずに、人を愛することもしないで人を裁き、人の悪口ばかり言う人がいました。とうとうその教会は二つに割れ、分裂して、小さくしぼんでしまいました。主の命令を守らない不従順が原因でした。主の命令を守らない教会は祝福されません。弟子訓練では、数よりも質の方が大切です。
JCFは、ただ人の頭数をそろえることを目的にしていません。みなさんひとりひとりが、キリストに従い、キリストの教えに従うような弟子になること、従順な主の弟子を作ることを目的にしています。
そのことをはっきり憲法のミッションステートメントでうたっています。
多くの人が、キリストの命令に服従することに慣れていません。自分の考えや気持ちが先で、神の命令、神の御心が二の次、三の次になってしまいがちです。「悔い改めてイエスの名前によってバプテスマを受けなさい」「お互いに愛し合いなさい」と言われても、自分のわがままな思いを優先してしまい、つぶやいてしまいがちなのです。でもJCFでは、みなで主の命令を守り、主の御心に従う教会を作りたいと願っています。
多くの人が、まだ自分の周りの人にキリストを紹介し、まわりの人が主の弟子になるように弟子作りの働きに参加することになれていません。
もしまだ自分が伝道していないのであれば、謙虚になってキリストの命令に服従する訓練を受ける必要があります。
伝道には労苦が伴いますが、その労苦をいっぺんに吹き飛ばしてしまうほどの大きな喜びが待っています。
この喜びを味わうと、伝道はやめられなくなります。
皆さんも、キリストの宣教の大命令を守り、滅び行く魂を愛し、情熱をもって伝道の業、教会形成の業に参加していただきたいと願っています。
きょうは、宣教の大命令で一番大切な「弟子作り」に焦点をあててお話をすることにします。
「弟子」とは、キリストの弟子であります。なかには、弟子という言葉を誤って解釈して、学問の師弟関係のようにとらえるグループもあります。それは聖書的ではありません。
内村鑑三の弟子が矢内原忠雄で、その弟子が高橋三郎で、という具合につなげていく必要はありません。人間関係の中で師弟関係があってはいけないとは思いませんが、それはマタイ福音書28章の宣教の大命令で言っている弟子作りではありません。私たちは、みなイエスキリストの弟子になり、イエスキリストに従う者になる必要があります。教会の主は、人間ではなく、イエスキリストであります。JCFは、このイエスキリストを主とあがめて礼拝し、このイエスキリストに従う弟子を作りたいと願っています。
弟子とは、元の言葉では、学ぶ者(learner)という意味があります。弟子とは、元の言葉であるギリシャ語では「マセーテース」(mathe-te-s)ですが、その動詞形が「マンサノー」(man-tha-no)(学ぶ)で、学ぶという意味です。
イエス様はマタイ伝11章28節−29節でこうおっしゃいました。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
この学ぶが「弟子」の動詞形、「マンサノー」であります。
イエスキリストが先生であり、弟子とは、イエスのみ足の足跡に従って、イエスキリストのようになろうとする者、イエス様から学ぼうとする者をさします。
「学ぶ」とは、神の御心を正しく知って、イエスキリストのあとに従う者という意味であります。
古いこの世的なライフスタイルを捨てて、キリストに従順に生きるライフスタイルに変わることを意味します。
この「学ぶ」とは、「まねをする」という意味もあります。キリストから学ぶ者はキリストに習うもの(imitator)でもあります。キリストは真の神のかたちであり、私たちの人格の完成の目標であります。
このキリストに近くなるように、キリストの愛をまねるように、キリストの従順をまねるように、キリストの謙遜さをまねるように、生きる者、これがキリストの弟子の歩みであります。
キリストの人格を目標に歩む者、これがキリストの弟子、クリスチャンの歩みであります。
イエスキリストは地上の公の生涯で、たくさんの人を集め、大きなグループを作ることに最大のエネルギーを使ったのではありませんでした。
イエスキリストが3年間の公の生涯で最も心血を注いだのは、少数の弟子作りでありました。
それは学校の大教室で、黒板を使って講義して、それでおしまいというようなギリシャ的な教育ではなく、もっと実践的な、少人数の徒弟制度のような方法でありました。
私が模範を示すから、あなたも同じようにやってごらん、というような、手とり足とりの教育方法でありました。
ですから、弟子作り、ディサイプルシップというのは、伝道と同時に教育であり、人作りでありました。
しかもそこで強調されていることは、キリストの教えに従うということであります。
それは弟子作りの命令に従うことも含みます。伝道の命令に従うことも含みます。
教会は、聖霊の働きに動かされて、伝道の業、弟子作りの業に励む必要があることをきょうのこの箇所から教えられます。
伝道と弟子づくりの命令を聞き流しておいて、ただ礼拝に来ているだけでいいのだ、と思わないでください。
教会は、クリスチャンだけのゲットーになってはいけないのです。
ぜひセルグループ、バイブルスタディーに参加し、そこにノンクリスチャンを招き、また礼拝にもノンクリスチャンを招き、み言葉を学びながら、伝道と教育の業を続けてください。みなさんは弟子作りの命令に従うことができるでしょうか?
もう一つ、弟子作り、弟子訓練で大切なことは、伝道と教育はサイクルにならなければならない、ということです。
使徒の働き2章41節―42節と47節にそのサイクルがうかがわれます。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
つまり、41節でバプテスマがあり、42節で教えがあり、47節で新たな伝道の実を刈り取っています。
これをAさんという人のサイクルで説明してみます。
ある求道者Aさんがイエスキリストを信じて、信仰の確信を得て、バプテスマをうけます。その人をそれでほったらかしにしてはいけないのです。
Aさんが、キリストの教えを忠実に守るようにさらに教える必要があります。
さらにAさんが、また次の人Bさんを導き、そのBさんが福音を伝えることができるようになるまでAさんを教え導く必要があります。
これが弟子訓練であります。そしてAさんが伝道の働きに参加して新しいクリスチャンBさんを生み出したら、今度はBさんがまた新しいクリスチャンCさんを生み出すようになる。
そんなふうになるまでAさんを訓練する、これが弟子訓練であります。
その弟子訓練のサイクルを最も端的にあらわれている箇所が第2テモテ2章2節であります。
2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人(※BさんCさん)にも教える力のある忠実な人たち(※Aさんたち)にゆだねなさい。 注)※は話者による説明
パウロからテモテが生まれ、そのテモテはAさんに福音を託すわけであります。そしてAさんが、他の人Bさんにも教える力がつくまでAさんを育てなさいとパウロがテモテに教えています。
私はある時、シンガポールのディサイプルシップトレーニングセンターという名前の弟子訓練センターで神学を教えておりました。学生たちの中心、30代が中心の学生でした。学生の大部分は、マレーシア、フィリピン、インド、パキスタン、韓国、台湾、日本、アメリカから来た留学生でした。みな大卒で、仕事の経験のある人たちが主でした。彼らは、途中で自分の仕事をほったらかしにして訓練を受けに来た人たちでありました。
イエスキリストが12弟子といっしょに寝食をともにしたように、4人のフルタイムの先生も学生も、同じキャンパスで寝食をともにしました。ですから、朝から晩まで学生と付き合って暮らしていました。
私には結構たくさんの講義をする仕事がありましたが、神学校の先生というよりは、1年中あるキャンプのカウンセラー件スタッフといった感じでした。
朝学生たちをつれて朝ごはんを食べにホッカーセンターという屋台にいったりしました。学生といっしょに食べ、講義が終わったあとも一緒に卓球をしたりバレーボールをしたりして遊びました。そしていっしょにショッピングセンターに行って回教徒や仏教徒に伝道したりしました。またいっしょに皿洗いをし、いっしょにそうじをし、芝刈りやペンキやメンテナンスの仕事もいっしょにしました。夜は、こどもたちもいっしょに歌を歌ったりゲームをしたりしました。そうやって育った学生の多くは、アジアの各国でキリスト教会のリーダーになっています。
こういうやり方も弟子訓練の一つの方法であるといえます。
シンガポールは、淡路島ぐらいの小さな島で、人口300万人ぐらいです。そこの教会の平均の人数は300人です。シンガポールJCFはアジアで一番大きな日系教会でしたが、シンガポールの基準からいうとわずか100人ちょっとの中規模の教会ということになります。
シンガポールには1000人を超えるメガ教会が7つあります。その7つとも少人数でバイブルスタディーをするセルグループ活動、弟子訓練活動をしていました。日本からもよくそのセルグループを学ぶツアーが組まれています。教会が大きくなるかどうかは、少人数による弟子訓練活動をしているかどうかにかかっている、ともいえます。
イエス様が12弟子を訓練したように、またパウロもシラスやテモテなど少人数のグループで弟子訓練をしたように、少数の人に弟子訓練をするかどうかが、将来教会が大きく伸びるかどうかと深い関係があります。
結局、イエス様がしたこと、初代教会がしたことを自分たちも実行した教会がのびているという現実をみてきました。
アメリカでも、シンガポールでもアジア各国でも、伸びている教会は、みな教会の中で小さなグループを作り、バイブルスタディーのような形の弟子訓練をしています。JCFも、マタイ伝28章のみことばを実行して、JCFとしてもっと弟子訓練が必要であると思っています。
私たちは、人に伝道するだけでなく、信じた人がまた次の人に伝道をはじめられるように育てる必要があります。でもそれだけで終わってはいけない。
みなさんの友達がまたその友達を導くことができるように、みなさんの友達を教える必要があります。
多くの教会は、そうやって伸びています。
私はシンガポールJCFという牧師のいない教会で顧問をしていました。どうしてシンガポールJCFが牧師がいなくても伸びていったのか、その理由は小グループ活動にあります。多くの人が牧師なしでどんどん集会をし、どんどん伝道し、みなで分担して教会を立て上げていったのです。そういうふうにみなが集会を作り上げて行く中で、自然に弟子となる訓練が行なわれていったのです。
日本では、どういうわけかその弟子訓練やセルグループ活動をしていない教会が圧倒的多数です。でも200人300人と大きく伸びている教会の多くは、少人数のグループによる弟子訓練プログラムがあります。
最後に20節のみことばを読みましょう。
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイ伝はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わっています。
イエスキリストは弟子たちを伝道に遣わして、あとは遠くで昼寝をしているのではありません。
私たちは一人ぽつんと突き放されているのではありません。
この場に主イエスキリストがご臨在なさり、また私たちが行く所どこにでも主が一緒にいてくださいます。たとえ牧師が一時的にいなくなっても、大牧者であるイエス様はいつもわたしたちひとりひとりと共にいらしゃいます。
あらゆる人生の営みの中で、イエス様が共にいらっしゃいます。
ここにクリスチャンの慰めと励ましがあります。
生きている時も、死の床においても、死ののちの生においても、主は共におられます。
主が共にいてくださる、これがあるから教会の働きを続けることができます。主が共にいらっしゃる、だから、人生で困難な時にぶつかっても、それを乗り越えることができるのです。主が共にいらっしゃる、だから、私たちは、平安でいられるのです。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」