2007610日(日)

I コリント10:1−13「試練からの脱出」

 

旧約聖書時代の歴史と新約聖書時代の歴史、そして教会の歴史に共通することがあります。それは神の民がいて、コミュニティーを作り、コミュニティーの中で人々が一緒に歩んだということであります。

旧約聖書時代にも、エジプトを脱出したあと、神の民はみなで一緒に歩みました。みなで神の臨在を示す雲の下におり、みなでいっしょに紅海をわたりました。そしてみなでいっしょにマナという神様がくださった食物をたべ、みなでいっしょに水を飲みました。

1節から4節までに4回「みな」ということばがでてきます。ここには「みな」でいっしょに神に導かれた様子が書かれています。神が神の民というコミュニティーを導かれた経験が「みな」という言葉の中に現われています。

旧約時代の歴史と新約時代の歴史と教会史に共通することはそれだけではありません。

神の民の中に不従順な人がいつもあらわれ、その人々が罪を犯しては問題を起こすということのくり返しがあったことです。

神の民としての教会は、そういう中で常に問題と戦いながら神の働きの器として神の輝きを現わして来ました。

そして人間の罪深さが現われると同時に、罪を清め人間を作り変え人間を変革する神の恵み深さを神は現わしなさいました。つまり人間の罪にもかかわらず、そのなかでも神の栄光が現われたということです。

そして旧約の歴史と新約聖書の歴史と教会史に共通することはつぶやく人があらわれるということです。

「つぶやく」とはぶつぶつ文句をいうということです。愚痴たらたら、不満たらたらということです。

Iコリント10章前半では、モーセに率いられエジプトを出た神の民がどんなに罪に罪を重ねてきたかを描き、偶像礼拝者にならないように、警告をしています。

10章6節ではむさぼらないように戒めています。

10章7節では偶像崇拝をしないように戒めています。

9節では、主を試みないように戒めています。

そして10節ではつぶやかないように戒めています。

そして11節では出エジプト後に起こったできごとは、私たちへの教訓であると述べています。

きょうはまず最初に、出エジプト記・民数記をあげて、どんなに神の民が何度も何度も次から次へとつぶやきの罪を犯したかを学び、パウロが過去からそれを教訓としたように、私たちも出エジプト記や民数記から教訓を学びたいと考えています。

 

誤解しないでいただきたいのですが、JCFで何かつぶやく人が出てきたのでそれに対応してお話をしようとしているのではないのです。

過去の歴史をみても私の経験からもつぶやく人がでてきてそれが問題を起こしたことが何度もあったので、JCFもそういう問題が将来おこることがないように、はじめからパウロが私たちへの教訓として書いたことを学んでおこうと思い、この箇所を選びました。

私たちの教会が属しているBGCというグループは、全体としてとてもいい雰囲気を持っています。善意でフレンドリーです。ちょっとした違いで悪口不平不満を言いません。そしてChurch Plantingがとてもさかんです。こういうグループは伸びます。

でも教会はすべてが、善意の人とは限りません。つぶやく人や悪口を言う人もいます。

きょうはまず出エジプト記と民数記を引用して旧約聖書から教訓を学びたいと思っています。

出エジプト記14章11節で、エジプトの軍隊がうしろから攻撃してた時に、モーセに不平をこぼしました。

出エジプト14:11−14

14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。

14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」

14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。

14:14 【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

 

モーセの民はたいへん危険な位置にいました。うしろからはエジプトの軍隊が自分たちを殺しに追っかけてきていました。前は紅海で行き止まりに見えました。民は神様が危ない状態から救ってくださることを信じないで、不信仰になってなぶつぶつ文句を言い始めました。

せっかく奴隷状態であったエジプトを出てここまできたのに、ここで死ぬよりエジプトで奴隷でいたほうがましだった、などとぶつぶつ文句を言ったのです。

神の民つまり広い意味での教会を神ご自身が守ってくださるという信仰がなくなってくると動揺が始まります。

そして昔の生活、罪の奴隷の生活に戻ろうという誘惑を受けます。

神はモーセを通して海を分け、乾いた地にします。

モーセが杖をあげると紅海が二つにわかれ、乾いた地となりました。エジプトの騎兵や馬車の形をした戦車もあとを追って紅海を渡ってきました。

神の民が紅海を渡り終えると海がもとへ戻り、エジプトの軍隊は海の中で全員溺れ死にました。そうやって神の力と栄光が現われました。

 

次にマラというところで民がつぶやきました。まともに飲める水がないとつぶやきました。

出エジプト15:24

15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。

 

次にシンの荒野で民は食べ物がない、飢え死にしそうだとつぶやきました。

出エジプト16:2−3

6:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。

16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

 

すると神はマナを与え食べていけるようにされます。

 

タブエラという所で民は、神の与えるものでは満足できないといって不平を言ってわめき散らしました。

民数記11:4−6

11:4 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。

11:5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。

11:6 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

 

神が与えるマナだけじゃあいやだ。もっといろいろ食べたい。肉も食べたい、魚も食べたい、きゅうりもすいかもにらもたまねぎもにんにくも。ああエジプトにいたときはいろいろ食べられてよかった。

 

カデシュというところにきてカナンに偵察隊を送りました。カナン人が強そうなのでおじけづいて、「とても戦いに勝てそうもない」とつぶやきました。神が乳とみつの流れるカナンの地を与えるという言葉を信じることができなかったのです。

民数記14:1−4

14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。

14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。

14:3 なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」

14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

 

エジプトに戻ろう、昔のライフスタイルに戻ろうという誘惑にかられます。

 

また民はモーセやアロンのリーダーシップに逆らい、「主の集会の上にたっている、けしからん」と文句を言いました。

民数記16:3

16:3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、【主】の集会の上に立つのか。」

 

モーセはコラに言いました。

民数記16:11

16:11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって【主】に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

 

荒野を旅するイスラエルの民は、くり返しつぶやきの罪を犯しました。神の恵みを無にして激しくつぶやき続けた民に対して、神は厳しい裁きを下されました。

 

パウロは、コリントの人々の中でつぶやきの罪や偶像崇拝の罪を犯している人々に向かって、これを歴史的な教訓として説教しています。

モーセの時代の民のようにつぶやいてはいけない。ぶつぶつ文句を言って逆らってはいけない。「立っていると思うものは、倒れないように気をつけなさい」と言っています。

自分の立場を過信している人が、神への奉仕において失格者にならないように警告しています。

パウロは、倒れることがないようにと厳しい戒めを与えると同時に、今度は慰めと励ましに満ちた言葉で試練の真っ只中にある人に語りかけています。

 

コリントI 10:13

10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

 

13節で二つのことを言っています。

第一は、試練は人によくあることである。人が知らないような特殊なものではなく、あなただけに起こった特別なものではなく、一般によくみられることである、ということであります。

第二は、神は私たちに耐えることができないような試練には会わせません。神は必ず逃れる道を与えてくださる、とパウロは言います。この二つについてご説明します。

第一に、人はいろいろな形で試練を経験します。試練自体は、悪ではありません。試練を何度も受けたからといって、どこか自分はおかしいのではないかと考える必要はありません。試練は、神のみこころにかなう人格へと人を作り上げます。試練は霊的な力を育てるために神はそれを有益なものとしてと尊く用いてくださるとさえ言っています。

ヤコブ1:12

1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 

I ペテロ1:6−7

1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

 

試練はその人を練り清め、多くの反省を与え、人を謙虚にし、ますますよい人格へと作りあげていきます。試練はその人を強くし、純化します。

ですから試練によって悲しみはありますが、その中においてもどこか喜ぶことができるのです。

1ペテロ3:14でペテロはこういっています。

 

3:14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。

3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」

正しいことのために苦しむことは幸いなことなのだとさえいいます。

 

試練が自分の身にふりかかった時に、特別な何かおかしいことが起こったと考える必要はありません。

1コリント10:13では、これは人間一般に起こる事であると言っています。旧約の歴史の中でも新約の歴史の中でも教会史の中でも自分の人生の中でもよく起こることなんです。

試練にあった、それは指導者モーセが悪いからだと、出エジプトをした民のようにつぶやいてはいけないと聖書はいいます。

試練があった、それはきっとヨブがよほど悪いことをしたためだ、さあどこが悪いか探せ、罪を告白せよ、ときめつけてかかったヨブの友人のようになってはいけないと聖書は教えています。

 

詩篇には試練にあった時の祈りがたくさん収められています。試練は多くの人に降りかかります。ですから詩篇の祈りは私たちにとって身近なものになります。みなさんの中で、今自分は試練の中にあると思っておられる方はいませんか?その方はぜひ詩篇を読むことをお勧めします。

苦しい時、辛い時、詩篇の中にある祈りが自分の祈りと重なってきます。そして祈りの中で神からくる平安と慰めを得る体験をします。

 

第二に試練には脱出の道があります。もう耐えられない、もうこれ以上は生きていけない、という状態になりません。もう自殺するしか他に道がないというふうにならないんです。必ず神は脱出の道を備えてくださいます。試練に会ったらだれでも悲しみます。でも試練に会って圧倒されて打ちひしがれたままにならないとパウロは断言します。

神の助けを信じて待ち望む者は、試練によって打ち負かされ、へこたれたままにならないのです。

復活してやみと罪の力に打ち勝ったイエスキリストは、復活の信仰を持つ私たちを暗いトンネルから脱出する出口へと導いてくださいます。試練を克服する勝利へと導いてくださいます。神は偉大なる力によって、私たちを試練の中から脱出する道を備えてくださるのです。

試練にあった時に動揺したり不安で思い煩ったりしないで、神の守りの力を信じ、神の脱出の導きを信じて、忍耐をもって復活の主イエスキリストを見上げて生きていきましょう。

 

試練の時に、サタンは私たちに道をはずさせようとします。

エジプトを出た民に、エジプトに戻らせよう、もと来た道に戻らせようとします。またサタンは、信仰から離れさせようとします。仲たがいさせようとしたりすることもあります。人間関係を破壊させようとすることもあります。また教会を破壊させようとすることもあります。

でも反対に試練に打ち勝つと、試練によって練られ鍛えられ、余計に強くなります。教会も人間関係の結びつきも強くなります。

試練があった時には、みなで助け合い、キリストの体として強く結ばれ、教会の一体性を強める機会となるように心から願っています。

そして試練から脱出の道が開けた時には、ぜひそのことを証しましょう。神様の導きをいっしょに賛美し、一緒に神の栄光をたたえたいと思っています。

 

北田康弘というピアニストで声楽家の方をご紹介します。

この人は、5歳で失明しました。未熟児で生まれたのですが、保育器での酸素過多で弱視になりました。その後病院の医療ミスで強い薬によって網膜がはがれ、全盲になりました。その後両親が離婚して、盲学校で6歳から高校3年生の時まで過ごしました。普通盲学校を卒業した人は、あんまやマッサージ、はり灸などの仕事につくのです。ところがその人は自分は音楽の道に進みたいと言い出しました。まわりから、「そんなことでは生活がなりたつはずがないから、あきらめなさい」と言われました。でもクリスチャンの先生から「やってみなければわからない。」と言われ、高校の時にはじめて本格的に音楽の勉強がはじまりました。音楽の勉強がはじまりました。筑波大学付属盲学校の音楽家に入り、そして武蔵野音楽大学のピアノ科に主席で入学しました。武蔵野音楽大学には、1000人近くのピアノ科の学生がいます。その中でトップで入学したのですから、きっとたいへんな努力をしたのだろうと思います。そして卒業もトップでした。同じ大学の同期のピアノ科の陽子さんと結婚しました。そして1993年に二人で洗礼を受けました。現在北島康広さんは、奥様といっしょに年80回のコンサートをこなしています。

彼は、声楽も上手ですので、奥様がピアノを弾き、盲目のご主人が歌うということをよくやっています。また「心の瞳」などのCDを出されています。

彼は講演で、「音楽と知覚障害は恵みだ」と証をしました。

どうして知覚障害が恵みなのか、と聞かれてこう答えました。「目が見えないことは不便ではあっても、不幸ではない。かえって心の目を開いて、神のみ声を聞くことに集中できる。私は目が見えなくても演奏できる。目が見えなくても感謝できる。」そう証しておられました。

私たちはみな何らかの弱さを持っています。でもその弱さの中に恵みを見る人生、これがクリスチャンの人生なのではないでしょうか。弱さの中に神の力が働く人生、これがクリスチャン人生なのではないでしょうか。

三浦綾子さんのご主人の三浦光世さんは、最近ご自分の自叙伝を出版した機会に、こんな証をなさいました。

彼は青春時代結核で首や腎臓などあちこち体が痛んだ経験を持ちました。でもかれはこう言いました。「苦しみがあったことはよかったのだ。苦しみのおかげで聖書を手にすることができた。苦しみのおかげで神を知ることができた」と言いました。

病まなければ献げ得ない祈りがあります。病まなければ信じ得ない奇跡があります。病まなければなかなか聞こえない神の言葉があります。試練の中で神様の業が働く時、それは益となるのです。

みなさんの中にも、何らかの試練があり、神のいやしや助けを必要としている方がいらっしゃるだろうと思います。その方も神のみ業がその人に現れることを待ち望みましょう。神様がアクションをとってくださり、神のくすしいみ業が現されることを待ち望みましょう。そしてすべてのことが益となって、神への賛美に向かうことができるのだ、ということを信じましょう。私たちの経験する試練の中で、神様が働いてくださった、ということを人びとが認めて、それが神のなされることは素晴らしいという賛美へと導かれることを願ってやみません。

 

今は私と家内にとっても、JCFにとっても試練の時です。家内には重い病気があり、そしてビザの問題があります。現在の労働ビザが切れたあと、アメリカ政府から私に新しい労働許可がおりるまで、これからJCFがどう歩むべきなのか、という問題があります。でもJCFにとって耐えることができないような試練にはなりません。そして試練とともに脱出の道がみことばに約束されています。この試練によってかえって教会が強くなり、質的に成長するために試練が益になることも期待できます。

お互いにつぶやきあったり、裁き会ったりすることなく、祈りながら霊において一致して、試練からの脱出の道を探っていきたいと願っています。

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