2007617日(日)

マタイ6:9「私たちの父」(Our Father) 主の祈り(The Lord’s prayerNo. 1

 

きょうは父の日礼拝ということで、父の日にちなんで「主の祈り」の最初のところからお話をいたします。

来週と再来週はマークケイン先生によって、「主の祈り」をテーマにもう2回ほどお話していただきます。

祈りは人間の自然な姿です。人間であれば必ず祈りをします。一生に一度も祈ったことがない人はいません。

祈りは人間の特徴です。他の動物は祈りをしません。

動物は礼拝をしません。

犬を飼ったことがある方はよくわかるのですが、犬は人間と同じようにフィーリングがあり、まるで小さな子供みたいです。でも犬と人間と決定的な違いがあります。それは小さな子供でも人間は祈りをしますが、犬は祈りをしないことです。犬は礼拝をしません。犬など人間以外の動物には宗教現象がありません。

聖書は人間はかみのかたちに似せて造られていると書かれています。神のかたちをもっているかどうかが人間と動物の違いになります。人間は神のかたちに似せて作られたので、人格をもっています。そして神様と交わり、祈る者として造られています。

みなさんはお祈りができますか?多分ほとんどの方がお祈りしたことがあると思います。でもどういう祈りをすればいいのかわからないという方もおられることでしょう。

祈りたいと思うのだけれども、どのように祈ったらいいかわからないでいる方もおられることでしょう。

「主の祈り」はルカ伝11章にも収録されています。ルカ伝では弟子の一人が言いました。

「私達にも祈りを教えて下さい。」

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

イエス様は「祈るときにはこう祈りなさい」とおっしゃって、主の祈りを教えて下さいました。

ですから、主の祈りはイエス様がこう祈りなさいと命じられた祈りの一つのモデルです。

マタイ伝6章7節では、祈りは繰り返し同じことばを言葉数多く、くどくど繰り返す必要はなく、シンプルでいいのだと教えています。

言葉数が多いほど聞かれると思ったらいけないのです。異教徒の中には、同じこいとばを何度も何度も何百回何千回と唱える人がいます。

たとえばある人は、南無妙法蓮華経 (I sincerely believe in the Sutra of the Lotus of the Supreme Law.)というお題目 を何百回何千回と唱えなさいと教えます。「あなたがまだご利益がないのは、まだ唱える回数が少ないからだ」と言った人がいました。

つまり、この人は、何千回何万回と唱えれば唱えるほど、ご利益(ごりやくdivine favor)があると思っているのです。

でもこれはイエス様の教えとは違います。そしてイエス様は、彼らの真似をしてはいけません、とおっしゃっています。

6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

神様は人格を持った全知全能なる方で、私達がお願いする前から、何が必要なのかよくご存知なのです。

もし私の子供が何百回も「お父さんお父さんお父さんお父さん、ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい。お父さんお父さんお父さんお父さん、ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい。」

と言ったら、私はもういやになってしまうかもしれません。「しつこい。もう欲しいことわかっているよ。」と不快に思うかもしれません。

でも何も言わないでいいのかというとそうではないのです。神様は、言葉に出してきちんと何を求めているのか、表現することをお望みです。ですから、簡潔に、でも心を込めてお祈りする必要があります。

 

祈りは、祈願である前に神との交わりです。

多くの人は、神様の存在を認めていながら、神を知っていながら、神様を神様としてあがめていません。

まるで第三者のように扱っています。場合によっては、心が通わない「もの」扱いにしてしまうことがあります。

本当の祈りは、「遠いよくわからない彼」に手紙を書くようなものではなく、神様の前に出て、「私とあなた様」の関係になることなのです。本当の祈りは、木や石で作った「もの」に対して話しかけるものではなく、私達を今見ていらっしゃり、隠れることができない方の前にでて、「あなた様」と語りかける行為なのです。

また祈りは、自分に対する言い聞かせではないのです。

祈りは自分の中での独り言ではなく、その祈りを今聞いてくださることができる神様の前に出てお話をすることなのです。

お話をする時は、だれに対してお話をするのか、はっきりさせる必要があります。

マタイ伝6章9節で、 『天にいます私たちの父よ。』

と呼びかけるように教えています。

恐れ多い神様を「父」と呼ぶことを許していらっしゃるのです。

「天にいらっしゃる」という言葉で、神様が最も位の高い偉大な方、あがめるべき方であることを現しています。また天という言葉で、この地上的な世界を超えた超越者であることを表現しています。神様は位の最も高い超越者であると同時に、私たちの父でもあるのです。

この「父」という言葉は、ギリシャ語で「パテール」、アラム語で「アバ」といいます。これは子供がお父さんを呼ぶ時に使う親しい(intimate)呼びかけの言葉です。

日本語では、「お父さん」「パパ」英語では、Daddy, Dadと訳することができるような言葉です。

神様は、私達が神様に親しく呼びかけ、頼ることを求めていらっしゃるのです。

「アバ」という言葉がローマ8:15のところとガラテヤ4:6−7にも書かれています。

ちょっとガラテヤ4:6を引用してみましょう。

4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

以前私はシンガポールでアジアの学生たちに神学を教えておりました。学生たちにアバという言葉の説明をしたことがあります。私は学生たちに言いました。「「アバAbba」という言葉はアラム語で親しみを込めて「お父さん」と呼びかけることばですよ。」

するとパキスタンから来た学生がいいました。「Urdu語ではAppaと言いますよ。」それでその学生に、urudu語のAppaとはどういう意味ですか、と尋ねますとDadという意味だと答えました。そして確かアラビヤ語でもabbaと言ったと思うと答えました。

中東の言葉は似ているんですねという話になりました。

アラム語でabbaとは子供が親近感と愛情をもって父親を呼ぶときに使うことばです。

みなさんの中にはお父さんとして子供さんを持っている方もいるでしょう。みなさんのお子さんは、お父さんに対して何と呼んでいますか?

「お父さん」ですか?「パパ」ですか?英語を話す子供は父親のことを、DadとかDaddyという人も多いと思います。大阪から来られた方は「お父ちゃん」と呼ぶ人が多いのではないでしょうか。京都から来られた方は「お父はん」と呼ぶ人もあるでしょう。秋田の人、鹿児島の人は父親のことを何と呼ぶかご存知ですか?

きょうはマタイ6章の「主の祈り」のイントロダクションみたいなお話です。

主の祈りは、すでにいろいろな日本の方言にも訳されています。「天にましますわれらの父よ」と訳されている翻訳は、いろいろな方言訳の方が、親しみを込めた父親に対するよびかけというニュアンスがよく訳されていて、意味が伝わってきますので、その一部をご紹介します。

まず大阪弁からいきます。

「てんのおとうちゃん。なあなあ、たのむよって、おとうちゃんの名前あがめさしてえな。おとうちゃんの国来さしてえな。てんやったら、おとうちゃんのおもたとおりなってんねんやろ?ほんなら、この地いでもなるようにしてえな。毎日の食べもんを、きょうもちょうだいな。

うちらにわることするやつを赦したるよって、

うちらの悪いことも赦してえな。

うちらをつらい目えにあわさんと

わるいことから救い出してえな。

国と力と栄えは、おとうちゃんのもんやねんもん。

ほんま、ほんま!」

アーメンと言わずに「ほんま、ほんま」と訳されています。

次は京都弁「主の祈り」です。

「天においやす、うちらのお父はん。

お願いどす、お名前をあがめさせとくれやす。

神さんの国をこさせてとくれやす。」

マツダ系列で広島から来られたかたいらっしゃいますか?

広島弁主の祈り

「天におってのわしらのおとうちゃん、

たのむけぇ あんたの名前をあがめさしてつあぁさい。

あんたの国をこさせてつかぁさい。」

会社がトヨタ系列であるなどの理由で名古屋からこられた方いらっしゃいますか?

名古屋弁主の祈りです。

ちょっと古いみゃーみゃーの名古屋弁なので、もう若い人とは言葉が違っていますがご紹介します。

「天におりゃあす、わしらーのおとーちゃん。

たのむで、あんたのなみゃーを、あがめさせたってちょー。おみゃーさんの国が来るようにしたってちょー。おみゃーさんがかんがえとることが、天でなっとるよーにうちんたぁとこにもしたってちょー。」

もう二つだけご紹介します。

秋田から来られた方いませんか?

秋田弁「主の祈り」です。

「てんさ えだ おらだのとっちゃ。

(秋田弁ではお父さんのこと「とっちゃ」というんですね)

なんとがーたのむがらー

あだのなめ おがませでもらえねすべが

あだのくにどご、 こさせんでけねべすが。」

最後が鹿児島弁です。

みなさんの中で鹿児島にいたことがある人いますか?

「天におわっしゃるおいどんたちのおやじさん。

おまんさんーの名前をあがめさせたもんせー。

お国を おじゃらせたもんせー。

お国をおじゃらせたもんせー。

おまんさーの思うとおりに天になるごっ

地になるごっ しっくいやんせー。」

鹿児島弁は難しい方言ですね。

鹿児島では、実の父親にむかって親しく呼びかける時にはおやじさんと言うそうですね。

 

昔私の子供がまだ小さかった時に、何も用事がないのに、私に呼びかけたことがありました。

「お父さん。」「何ですか?」「お父さん。」「何ですか?」「うーん。別になんでもない。」そういってにっこり笑ったことがよくありました。

「お父さん」と呼ばれて、頼りがいのある者として慕ってくれると、父親としては、まんざらでもない、と嬉しくなります。

うちの子供は最近は友達との電話ばっかりです。

うちに帰ってきてもすれ違ってもよびかけもあいさつもしない時もあります。まるで私がいないかのごとく、すれ違うのです。すると、「パパここにいるよ。」と注意を喚起することがあります。そうすると、I know.(わかってるよ)と仏頂面で返事して、すぐに引っ込んで友達との電話ばかりに夢中になってしまうことがあります。

以前、うちの子供は朝電話しながら私の顔もみないであいさつもしないで通り過ぎました。私はじっと後ろ姿をみていましたところ、気がついたようで、振り返り、手を振りました。ああ親子がコミュニケーションができたと安心しました。

父親が存在することは認めている。でも心の交わりがなく、別のことに心が奪われて自分を素通りしてしまうならば、父親としては悲しく残念に思います。

父なる神様も同じで、神様の存在は認めていても、心が通うよびかけがないと、神様はお喜びなさらないのです。

神様は、私達が祈りの中で神様に「天にいらっしゃる父よ」と親しく呼びかけることを望んでいらっしゃるのです。一応存在だけは認めている、しかし遠く心が離れた神様との三人称の関係ではなく、親しく呼びかける一人称と二人称の関係「私とあなた様」との関係になることを望んでいらっしゃるのです。

『天にいます私たちの父よ。』

祈りの時に、こう呼びかけるようにイエス様は教えています。神様の前に出て、心を神様に向け、「私とあなた様」一人称と二人称の関係になって呼びかけるように教えています。

「天にいます」という言葉からもわかるように、神様は天のみ座におられる超越者、主権者であり、栄光と力と知恵に満ちた恐れ多いお方です。

天という言葉は、位が高いことを意味しています。

最高位に座している、最も尊い敬われるべきお方です。

でもそれと同時に、「父」という家族用語を使って、親しく近づくことをお許しになっている方でもあります。

「父」は、男という意味ではなく、保護者であり、威厳があり、怒ればこわい、でも自分を愛してくれる者という意味の呼び名です。自分を養い、食べさせてくれ、ケアーしてくれる頼もしい神の家族の一番偉い存在という意味合いのある呼び名であります。

ユダヤ教では、神様を父とは呼びません。

では神様を父と呼ぶことは旧約聖書的ではないのか、というとそうではないのです。

出エジプト記4章22節に、イスラエルを自分の長子であると呼んでいるのです。

出エジプト4:22を引用してみます。

4:22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。

 【主】はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。

でも、旧約時代には、神様をお父様と呼ぶ習慣はありませんでした。

神様を自分の父親のように慕いまた頼るように教えたのは、イエス様の新しい教えでありました。

ですから、弟子達には、この祈りの教えは新鮮に響いたことでしょう。

主の祈りによってイエス様は私たちに神様に対してお父さんにかたりかけるように親しく神様に近づき、祈るように教えています。

本来、父親、家族を愛し、子供を養い育て、家庭を治める家庭で尊敬されるべき存在です。

お父さんである方にお聞きしたいです。

皆さんは、家族を愛していますか?子供を養い育てていますか?家庭を治めていますか?家庭で尊敬されていますか?

日本のある家庭では父親は、「粗大ゴミ」として扱われることがあるそうです。特にリストラに合い、うちでゴロゴロされていると、邪魔者に思えてくるという意味です。家の中で、大きいばかりで邪魔な存在、給料さえ持ってきてくれれば、あとはいない方がいい存在という意味です。父親が「粗大ゴミ」だなんて、ひどい扱いですね。でもユダヤの世界では、父親は本来一家の長として尊敬されるべき者として考えられています。父親は、偉く、それでいて愛情にあふれ家族を養い、家族を守り、こどもを育て教育すべき者として考えられています。

教育は特に宗教教育は基本的には父親がすべきものと考えられています。過ぎ越しの祭りでもお父さんがリーダーとなってお祝いします。

子育てもお父さんとお母さんがいっしょになってすべきもものと考えられています。

みなさんのご家庭では、お父さんはよき教育者でしょうか?それとも子供の育児をみなお母さんに任せて、自分は育児を全くしない人でしょうか?育児をしない父親はいくじなしではないかなと思います。

でも最近のお父様は、幼稚園の運動会に参加したり母の日や父の日に礼拝に参加する人も多く、家族の交わりを大切にする方が増えています。

ぜひ家族の中で、お互い心がかよい、神様に喜ばれるよい家庭を作っていただきたいと願っています。

お互い心が通いあう家庭を作る秘訣、それは父なる神様の愛を学ぶことです。私たちを愛し、私たちを守り育て、養ってくださる父なる神様のやりかたをよく学ぶことです。

もし自分はあまりよくない父親だなと思うことはありませんか?もしそうであっても、よい父親になれる道があります。自分は父親としてちゃんと子供を責任をもって養って食べさせていけるだろうか、と不安になったりすることはありませんか?自分は十分子供を愛していない、愛のある親になりたい、と思うことはありませんか?その解決の道があります。

神様は、私たちのとって私たちを養ってくださる父なる神様です。もし父なる神様に助けを求めるならば、神様は本当に助けてくださいます。もし父なる神様に養ってください、日ごとの糧を与えてください、と求めるならば、父なる神様は本当に養ってくださり、日ごとの糧を与えて下さるんです。父なる神様の助けによって、愛を学び家族を愛することができる父親へと変えられていきましょう。神様の助けによって、聖書を基準として子供を養い育てていきましょう。そして神様を敬いながら、尊敬され、敬われるような父親になっていただきたいと願っています。

また子供に対しても、ぜひ聖書に基づいて親を敬い、親に従うことを教えてください。親を敬うことが出来なければ、神様を敬うことはできません。目に見える親に従うことができなければ、目に見えない神様に従うことはもっと難しいことです。

まず私たちが父なる神様を敬い、従う。その姿を見て、子供も父親に従い、父なる神様に従う、そういう家庭を作ってください。

そうやって、父なる神様を中心にした愛のあふれたよい家庭を築いていただきたいと願っています。

 

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