2007年8月26日(日)
ヨハネ11:33−45「命を与える主」(The Lord, the Giver of life)
おとといの金曜日に私は
Grand Rapidsに葬式に行ってきました。Grand Riverの聖書研究会のメンバーであるある方に8月20日月曜日に赤ちゃんが生まれました。その7時間後に同じ日になくなりました。私はなくなった次の日の火曜日に家内といっしょにその方の家に訪ねていって、慰めに行きました。その方は、泣いておられました。家族の大切な一員がなくなることは、たとえそれが短い命であっても、大きな悲しみをもたらします。
この赤ちゃんは、生まれる前から胎児に染色体の異常が発見されており、長くはいきられないことが予想されていました。
でも33週目に人間として正式に生まれ、
Matthewという名前がつけられ、短い命でしたが人間として丁重に葬儀がおこなわれました。ここに写真つきの葬儀の式次第があります。きちんとした葬儀が行なわれました。私はご夫婦のために祈りの言葉を英文で用意しました。「
Matthewが今主の愛の御手の中に抱かれているのだということを知ってください。その知識によって、あなたの悲しみがやわらげられますように。」(May your sorrow be eased by the knowledge that Matthew is now embraced by the loving arms of our Lord.) といって慰めました。ご夫婦は、人間の命がはかないこと
(frailty)、そして私たちも死と死後の命の備えをしなければならないことを教えられたそうです。みなさんは、死について考えたことはないですか?
死の備えはできていますか?
忙しくて死を考える時間がない人でも、必ず死はすべての人にやってきます。
人間は死んだあとどうなるのでしょう?死を克服する道はあるのでしょうか?死後の世界はあるのでしょうか?
私は約一ヶ月前の7月22日にヨハネ福音書11章の1節から32節までのところから、「神の時」と題してお話をしました。イエス様の弟子に、マリヤマルタラザロの3人兄弟がおりました。ラザロが病気のため、マリヤとマルタは、早くイエス様がうちに来て、弟のラザロをいやしてくれるように使いをやりました。ところがイエス様は、わざとラザロが死に、その死が動かぬ事実になるまで出発を延ばして、神のご栄光をあらさされたというお話をしました。
私たちの生活の中でも、神様はなぜぐずぐずしておられるのだろう、なぜすぐに事を起してくれないのだろうか、と思うことがあります。でも神の時は人間の考える時と違うことがあります。一番いい時に神様は事を起されるのであります。そのことの例として、グリーンカードの最初の段階であるペティションの認可が絶妙なタイミングでおりた、そのことで私がアメリカにいられる様になり、家内の恵子も治療を継続することができるようになった、というお話をしました。
きょうはそのラザロの復活のお話の続きであります。
きょうのところの聖書の箇所のはじめのところを読んでみましょう。
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
死は悲しみを伴います。愛する人がなくなった時には、涙を流して泣いてもいい時です。そして人間になられたイエス様も、愛する弟子のために泣かれたのです。イエス様は悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者とともに喜んでくださる方なのです。
肉体の死がサタンの支配下に入った以上、肉体の死はやはり悲しみであり、それを率直に葬式で表現してもよいのです。イエスキリストも私たちの親しい人の死を悲しんで下さるのです。
けれども、私たちは、肉体の死をすべての終わりだと考えて絶望する必要はありません。ですから肉体の死は悲惨でしかない、と考える必要もないのです。
イエス様を信じた者は、死後に命があり、信じた者は死で終わることがないからです。
私たちは、肉体の死が本質的な悲惨の原因ではなく、霊的な死が人間の悲惨の原因であることに心を留める必要があります。
11章4節のことばは直訳しますと大変興味深い意味を私たちに伝えてくれます。
新改訳は、
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
となっています。
ところが4節を直訳しますと、こうなります。
「イエスはこれを聞いて、こう言われました。「この病は死に至るものではなく、神の栄光のためのものです。」
NRSVはこれを忠実に訳しています。
’But when Jesus heard it, he said, ”This illness does not lead to death; rather it is for God’s glory, so that the Son of God may be glorified through it.”「死で終わるものではなく」はプロスという方向性を現す前置詞が使われています。ですから「死にに至るものではなく」と訳す方が原語に忠実です。
この病気は死に向かうものではない、死に至るものではないと言われておりながら、ラザロは死んでしまうのです。
この「死」は霊的な死をさします。たとえ今病気を持っていても、その病は霊的な死に至る病ではないのです。サタンが死を支配しているために、確かに病があり確かに肉体的な死があります。でもラザロの病気はヨブ記からもわかるように、彼が罪を犯したから、その罰として死に至る病になったのではないのです。
クリスチャンも病気をします。そしてそのために死ぬこともあるでしょう。しかしそれは死に至る病ではありません。
一番問題なのは、「死に至る病」があることです。
ゼーレン・キエルケゴールという人はこの箇所から「死に至る病」という本を書きました。
ラザロの病気は死に至る病ではなかったのです。
しかし人が気がつかない最大の悲惨があります。それが霊的に死に至る病です。死に至る病とは、信じることができず、絶望することです。死に至る病とは、不信仰の病、絶望の病です。この絶望は美的喜びや倫理的なルールを守っても満たされない空虚さの中にあります。人間にとって本当に悲惨なのは、肉体的に死ぬことではなく、イエスキリストを信ぜずに、霊的に死に向かっていることなのです。キエルケゴールは実に見事に人間の罪の洞察をしています。
クリスチャンも死はできれば避けたいと思います。でもクリスチャンになりますと、死の恐怖から解放されます。死んだら、すべてが終わりではないのです。死は絶望ではありません。死後の命があるので、信じる者は希望を持つことができるのです。
クリスチャンとしてしっかり歩み始めますと、死の覚悟ができて、死がそれほど恐怖ではなくなります。成熟したクリスチャンは、死の床に臨んで、家族と別れることで悲しみはありますが、しかし安らかに死を迎えることができます。天国に行く喜びと希望があるからです。
以前にフランシスプーランクというカトリックの作曲家が作った「カルメル会修道院の対話」という歌劇を見に行って大変感動した経験があります。
これは1794年にフランス革命の嵐によって、16人の修道女がギロチンにかけられたという史実に基づいたお話です。
ブランシュという娘が修道院に入るのですが、そこでは死の恐怖についての会話が行なわれていました。
修道院長が死を恐れもがきながら、the fear of deathと叫びながら死んで行きました。
けれどもその次に赴任した新しい修道院長は信仰深い人で、信仰によって殉教の備えをするように修道女たちを導きました。
フランス革命の革命委員会の代表が宗教活動を禁じる布告を告げました。フランス革命はキリスト教を含むすべての旧体制(アンシャンレジーム)を滅ぼそうとしました。
修道女たちは、その宗教活動禁止の布告を退けて、牢獄に入れられました。
そしてギロチンにかけられる日を待たなければならなくなりました。
主人公のブランシュは、途中で信仰が後退して、先に実家にもどっていたために逮捕されませんでした。
でもいよいよ修道女が次々と処刑される時に、ブランシュも見物人のなかから姿を現し、賛美に参加しはじめました。彼女は他の修道女たちといっしょに歌いながらギロチンにかけられるというストーリーでした。
私は、逃げたままでよかったのではないかと思ったのですが、彼女にとっては、それは信仰の回復の証でもあったのでした。死の恐怖を克服し、自分の弱さを克服して信仰を貫き通した修道女の生き方がこのお話にでておりました。
すこし話がそれてしまいましたが、ラザロの復活の話に戻りましょう。
まず写真をお見せしましょう。
これがベタニヤにあるSt. Lazarus Churchです。ベタニヤはエルサレムより3キロ近く東に行ったところにあり、今はエルアザリヤ(El-Azaria)と呼ばれています。エルアザリヤとはアラビア語でラザロの所という意味です。1951年にマリヤマルタの家の跡と言われているところが発見されました。その場所にフランシスコ派のSt. Lazarus Churchが建っています。この教会は900年ごろビザンチン帝国時代に建てられたものです。
ここにラザロとその姉妹マルタとマリヤを記念した絵があります。
教会の建物の裏側にラザロの墓と呼ばれている場所があります。教会の階段を下りていくと、ラザロの墓であったと考えられている場所にたどりつきます。
墓は岩床に掘られた地下洞穴で、22段の石段を下って前室に入り、さらに2段下って本室に入るような構造になっています。その三面の壁にくぼみが設けられていて、遺体をそこに安置できるようになっています。そこがラザロの墓と呼ばれている場所です。
この写真は、教会の外の岩の写真ですが、ラザロの墓はこんな風景だったとおもわれます。
ではイエス様がラザロを生き返らせた話に入っていきましょう。
イエス様はおっしゃいました。
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
イエスキリストを信じる者は、死後も永遠の命があります。死は悲しみですが、しかし、死後にも命があるという信仰、死んだあと天国に行くことができるという信仰は、人を死の恐怖から解放します。
イエスキリストは、命を与える方です。イエスキリストは命の源です。
ですからイエスキリストにあるものは、死んでも生きることができるのです。
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
33節と38節でイエスキリストが霊の憤りを覚えられたと書かれています。イエスキリストはマリヤやマルタに対して憤られたのではありません。イエスキリストは死と死の背後にあって死の力を持つサタンに対して怒り、サタンに対峙しながら墓に向かって歩いていったのでした。
イエスキリストは死と死の力を持つ悪魔と対決する者でした。あたかも戦いに出て行く戦士が武者ぶるい戦士のような姿でありました。
イエス様は死の征服者であられます。イエス様は命の源であり、命を与える方であられます。
イエス様の憤りは、人類最後の敵である死に対する挑戦でありました。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
イエス様は、まず祈られました。
イエス様の奇跡はまず祈りによって起こりました。
そして神の栄光を現すために奇跡をおこないました。
ここで注意して欲しいことは、「聞いてくださったことを感謝します」と過去形で書かれていることです。
信仰とはまだ見ていないものを確信させることであるとヘブル書11章1節に書かれていますが、まだ起こっていないことが将来必ず起こると事実を先取りすることが信仰です。イエス様は事実を先取りできたので、過去形で表現できたのです。
40節でイエス様はおっしゃいました。
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
イエス様は世界の創造主です。命を与えることができる方です。
難しいと思えることでも、みこころならば、祈りが聞かれるのです。そして神の栄光を見ることができるのです。これがイエス様の約束です。
「信じるなら栄光を見ると言ったではありませんか」というイエス様の言葉を自分の生活に適用して考えてみてください。たとえイエス様でも、こんな難しいことはできないのではないだろうか、そういう疑いがありませんか?もし信じるならば、そしてイエス様のみこころであれば、そのとおりになり、神の栄光を見ることができるのです。
みなさんの持っている問題をイエス様は解決することができることを信じることができますか?
みなさん一人一人が、信じるならば神の栄光を見る、と言ったイエス様の言葉を信じて、信仰を持って歩んでいただきたい、と思っています。
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
イエス様は多くの人が見ている中で、墓の前に立って大声でラザロに向かって叫びました。
「ラザロよ、出てきなさい。」
この時に、もし何も起こらなかったら、面白いことになります。
「ラザロよ。出てきなさい
そう叫んで、何も起こらない。もう一度叫んで、何も起こらない。」「おかしいな。すみませんね。もう一度やってみますね。ラザロよ。出てきなさい。あれ出てこない。どうしちゃったのかな。」
もし何も起こらなかったら、イエス様は大恥をかくことになります。ただ恥をかくだけでなく、イエス様の権威が失墜することになります。
言ってみれば、イエス様が命を与える方かどうか、その権威が実証されるかどうかは、ラザロが墓からよみがえってでてくるかどうかにかかっていたのでした。
どうなったでしょうか?死んだはずのラザロが長い布きれに包まれたままで出てきました。そして布をほどくと、ラザロの顔が現われました。それを見た大勢の人がイエス様を信じるようになりました。
イエス様はただ病気を癒すことができる方だけではない。死に打ち勝つことができ、人をよみがえらせ、人に命を与えることができる命の主であることを、ラザロのよみがえりの事件を通して啓示なさいました。
「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」
皆さんは、このことを信じることができますか?
お祈りをいたしましょう。