2007年9月2日(日) 普喜幹治牧師

ヨハネ11:46−57「大祭司の預言」(The Prophecy of the Chief Priest)

11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

11:47 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。

11:48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」

11:49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。

11:50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」

11:51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、

11:52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

11:53 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。

11:54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。

11:55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。

11:56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」

11:57 さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。

だいぶ涼しくなってきましたね。明日はレイバーデーで、このロングウイークエンドに休暇でどこかへ出かけておられる方もおられます。学生たち生徒たちにとっては新学期がはじまり、さあまた勉強が始まるという時期ですね。9月の新学期が始まったら、もうひたすら勉強させられます。

おとなにとってもレイバーデーのロングウイークエンドが終わったら、感謝祭クリスマスの時期まではもうあまり休暇もとらずに、仕事に専念するという方も多いのではないかと思います。

教会の活動も、夏にはアメリカの牧師さんはゆっくり休暇をとり鋭気を養うためにプログラムも少なくなりますが、9月に入るとまた本格的に働き出すというパターンの教会が多いようです。

JCFでも9月に入り、身を引き締めて礼拝伝道教育交わりのためのための活動に励みたいと思っています。特に今は教会を建て直す大切な時期ですので、まず静まって祈り、御言葉によってガイダンスを受けて前に進みたいと思っています。

 

さて、ヨハネの福音書11章からすでに2回お話しました。1回目では、「神の時」と題して神の時と人間の考える時と違うことがあるということについて、先週が2回目で、「命を与える主」と題してイエス様が命の源であり、人をよみがえらせる力がある方であることについてお話しました。きょうは11章の最後の部分からお話しをいたします。

11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

このラザロの復活のできごとは、イエス様が死に対決して勝利を収め命の主であることを私たちに示したできごとであります。

では死に対決して決定的な勝利を収めるために、イエス様はどのように対処なさったのでしょうか?

それは命の根源であり、死を味わう必要のないイエス様が、私たちのために死ぬという形で死を滅ぼし、死に対して勝利の道を私たちに開いてくださいました。つまりイエス様が死ぬということで、死の力から私たちに救いをもたらしてくださったのです。

11:53 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。

ヨハネの福音書は、ラザロの復活がイエスの処刑の陰謀に直接つながっていったと記し、死と闇の力に対する勝利をキリストの死と結びつけています。

11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

おもしろいことに、神様のみ業を見て喜ぶ人もいれば、神様のみわざをみて余計に反発し、頭にきて、イエス様に背を向けイエス殺害の計画を立てる人がでてきました。

神の業を見ると、神に従順になる人と、かえってかたくなになり、反発して不従順の道を突っ走る人に別れていきます。

パリサイ人たちは、イエス様が行った奇跡は認めているのです。認めてはいても、それが信仰につながらず、かえってイエス様をどうにかして抹殺しなければならないという思いにかられてしまう人びととなりました。

奇跡を見せてくれ、そうしなければ信じない、という人がいます。この目で見なければ信じない、という人がいます。では奇跡が起こったことを自分の目で見ればみなイエス様を信じるか、というと、そうではありません。

奇跡を奇跡として認めても信じないで、かえって反感を感じる人はいくらでもいます。

11:47 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。

47節に議会を召集したと書かれています。47節の議会とは、サンヒドリンという名の71人の議員からなる最高法院のことです。

イタリヤで言えばローマ法王庁とイタリアの国会を合わせたような宗教的法的な最高決定機関でありました。

ちょうどアメリカに共和党と民主党の2大政党があるように、当時のユダヤ教議会にも祭司貴族階級のサドカイ派と平民知識階級のパリサイ派の二つの勢力によって構成されていました。

祭司たちのほとんどはサドカイ派でしたので、47節の「祭司長とパリサイ人」によって、つまりサドカイ派とパリサイ派によって議会が召集されたわけです。そして当時はサドカイ派の大祭司カヤパが議長を務めておりました。

11:48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」

ユダヤ人のお偉方たちは、イエス様の影響力があまりにも強く、多くの民衆がイエス様にたなびいている姿を見てねたましく思っておりました。それだけでなく、危機感さえ感じておりました。この危機感が48節の言葉に現われています。

ローマ帝国は、その当時のローマ属領の支配者層に対して、寛容な政策をとっていました。ただローマ帝国が自分たちに寛容であるには、それなりに条件がありました。その条件とは、ローマ帝国に服従し、その地方の治安を維持し、ローマの方針にそった統治能力がローカルの権力者にある限りにおいてでした。

もしも革命運動や独立運動がおこれば、すぐにローマの軍隊が出動して鎮圧し、支配者を滅ぼしてその地域を破壊する、という政策をローマがとりました。

ところが彼らが考えるには、このイエスという男がメシヤ運動をして人気を集めている。このままのさばらしておくと、民衆はローマ帝国の支配から独立しようとし、イエスをユダヤ人の王、救世主として立ててしまい、民衆のメシヤ運動による一斉蜂起がおこらないとも限らない。そうなると、暴動が起こり、必ずローマ軍の武力干渉を招く。そうなると、議会から神殿までみなローマ軍によって破壊されてしまうだろう。

そうなったら、議会の人や特権階級である自分たちの身が危なくなる。自分たちの議員や祭司としての地位や特権が危なくなる、そう考えたのでした。

11:48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」

この土地と国民というのは、神殿を中心としたユダヤ教の支配体制と考えたらいいでしょう。我々の土地、我々の民、我々の支配しているものをみなローマに壊され、奪われてしまう危険がある、と考えたのでした。

こういう危惧が議員たちの間でありました。ぐずぐずしていれば、手遅れになる。早く何らかの手を打たなければならない、といういらだちが彼らにありました。

それで議会が召集されたわけです。

すると、議長であった大祭司カヤパがぶっきらぼうに口を開きました。

11:49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。

カヤパという人は典型的なサドカイ人でありまして、当時のユダヤ人の歴史家ヨセフス(Josephus)はサドカイ人についてこんな風に書いています。

「サドカイ派はお互いの間の振る舞いでさえ、かなり野卑であって、自分たち同士の話し合いはまるで異邦人どうしのように野蛮である。」(ユダヤ戦記II-8-14)。

49節の訳はもうちょっとぶっきらぼうに訳す方がいいのではないかと思っています。

「あんたらは何にもわかっちょらん。」

何が分かっていないのかといいますと、50節を見てください。

11:50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」

ユダヤ人多数がイエスの方にたなびけば、民族全体の存在が危うくなるし、自分たちの地位も危うくなる。だから民衆が死なないで、一人だけが死ぬ方が結局は得だ、という考え方でした。イエス一人だけ殺せば、それで済むではないか、という陰謀でありました。

個人が全体のために犠牲にならなければならない、とうう政治原則を考えていました。

日本でもこういう考え方は昔からありました。

江戸時代に、農民一揆がよく起こりました。そういう場合に、農民をみな殺してしまっては、年貢の取立てができなくなって、自分たちも損をしてしまう。一揆の代表者だけを早めに殺しておく方が得策だ、という支配者層おかみの考え方が江戸時代にありました。

ここでとられている価値判断は、正しいか正しくないかではなく、自分たちが損をするか得をするか、という打算的な判断でした。

私たちから神殿をローマ軍によって奪われたくない。支配権も奪われたくない、この利得を守るためであれば、イエス一人が滅んでもこの際やむをえない。

そうすれば、国民も壊滅的な被害を受けずに済むし、自分たちも得をする、だからイエスに死んでもらうしか道がないのではないか、という陰謀に発展していきました。

11:54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。

11:55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。

11:56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」

11:57 さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。

イエス様は当局からのお尋ね者になり、イエス逮捕のための捜索がはじまりました。「イエスを見たものは届け出ること」というおふれが出ました。イエス様はもう身を潜めなければならないほどの危険な身となってしまいました。

片や多くの民衆の熱狂的支持がありました。そして片や政府当局からは命をつけねらわれているという緊迫した時期でありました。

56節にあるようにユダヤ当局は過ぎ越しの祭りに、のこのことエルサレムにやってくるようなことはあるまい、と予想していたほど、ユダヤ当局は必死にイエスを捜索していました。

実はそういう中でイエス様は大胆不敵にも過ぎ越しの祭りの時期にエルサレム入場をなさり、またユダヤ当局も民衆を見方につけるための必死の扇動工作があったのでした。

ユダヤ当局は、イエスを殺すためのよい方法をさがしていました。彼らは民衆の人気を恐れていましたので、(ルカ22:1)、どうやってイエスをだましてとらえ、殺すことができるか懸命でありました(マルコ14:1)。

さてきょうの中心的な聖句に入りましょう。

11:50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」

11:51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、

11:52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

イエスを殺そうと企てたこの50節のカヤパの言葉は、かれが大祭司だったので、預言したのである、と聖書はいいます。

祭司は預言する賜物があるということは聖書にも書かれていますし、一般にもそう信じられていました。

ダビデはその時代の大祭司であるザドクに向かって「先見者よ」つまり預言者よ、と呼びかけています。(IIサムエル15:27)。またイエス誕生の時にも祭司ザカリヤが「聖霊に満たされ、預言して」歌った歌が記されています(ルカ1:67)。

けれどもここで不思議なのは、カヤパが言った自己中心の言葉の中に、表面的な意図だけでなく、カヤパ自身も知らなかった隠れた預言として深い意味が神の側にはあったということです。

神は、神の計画を全然知らない人の口を用い、時には神に反逆している人びとの口を用いてさえも、神の計画を推進なさる不思議なお方です。

人間の意志とは別に、大祭司として言った言葉が実際に私たちの身代わりとして一人で十字架でイエス様が死ぬ預言となりました。

聖書は、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが」私たちが皆が滅びうるより、いいことなのだ、という預言がカヤパの口から出たと言っています。そしてイエス様が私たちのために死のうとしておられたこと、また神の子供たちを一つに集めるために死のうとしておられたというイエス様の意図も預言されたのでした。

聖書は、イエス様は私たちのために死のうとしておられたのだと言っています。

イエス様は私たちの代わりに十字架上で死なれました。ただカヤパたちがイエスを殺そうとしていただけではなく、イエス様も私たちのために死のうとしておられたのでありました。

民の代わりに一人だけ死ぬという身代わりの死がカヤパの口からでたのであります。ここにカヤパよりも神の方が一枚も二枚もうわてであるおもしろい皮肉が語られています。

第一に面白いことは、「あなた方は全然何もわかっていない」と言ったカヤパ本人が何もわかっていないのです。イエス様は十字架に付けられた時に言われました。「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からないでいるのです。」何もわかっていないというカヤパ自身が、イエス様がこれから私たちの代わりに死のうとしていることがわかっていなかったのです。

第二に面白いことは、ローマの軍隊がやってきて神殿も何もかも奪い取ってしまいはしないか、と恐れていたユダヤ人たちでしたが、イエスによらず、自分たちの反逆によって神殿が破壊されてしまったのです。紀元70年にユダヤ人たちはローマ帝国に対して反逆し、そのためにエルサレム神殿もエルサレムの城壁も徹底的に破壊されてしまいました。今残っているのは嘆きの壁と呼ばれているところだけです。イエス様を信じたクリスチャンたちは、イエス様の警告どおり「荒らす憎むべき者」がエルサレムに来た時に、すぐにエルサレムを離れて山に逃げました。そしてかえってそれが福音の伝播に役にたちました。ところがイエス様を信じないで、独立戦争に参加したユダヤ教徒たちは壊滅的な悲劇を経験しました。あるものはマサダというがけのの上にあるとりでにたてこもって、ローマの軍隊に囲まれて全員自害しました。こうやって神の力によって、神殿で動物のいけにえができないようになってしまい、神殿礼拝体制が完全に崩壊してしまったのでした。

第三に面白いことは、人間の自由意志を主張し、神の定めを否定したサドカイ人であるカヤパ自身が神の定めを預言したということであります。イエス様が十字架につけられて殺される、ということは人間の自由意志からしているように見えても、それは神のご計画の中にあって神の定めによって起こったことなのだ、ということを福音書は見事に描いています。

最後にIペテロ3:18を引用します。

3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

イエス様は一体だれのために、何のために十字架にかかってしなれたのでしょうか?それは私たちのために十字架にかかってしなれたのです。

私たちの代わりに死んだのです。これはカヤパも意図しないで預言ことでしたし、また旧約聖書も預言したことでした。

さらにイエス様の死の意味は、新約聖書のあちこちに書かれています。イエス様は私たちのために代わりに死んでくださったのです。それは私たちの罪を贖い、私たちを救い、私たちを神のもとへ導くためでした。

イエス様は私たちのために死んでくださったのです。

イエス様は私たちのために血を流してくださったのです。イエス様は私たちを罪から救うために、死んでくださったのです。

聖餐式はイエス様の十字架が私たちのためであったのだということを覚えるために行なわれます。

きょうの聖餐式でも、私たちが滅びないように、私たちの代わりに私たちの罪を身代わりに背負って死んでくださったのだということをもう一度覚えながらパンとぶどう酒をうけとっていただきたいと思っています。