2007年9月9日(日) 普喜幹治牧師による説教

ヨハネ12:1−11「高価なナルドの香油」(Nard, an Expensive Perfume)

12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。

12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。

12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。

12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。

12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。

12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。

12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

ヨハネの福音書からずっと講解説教をしています。やっと半分を超えました。ヨハネ福音書では、前半では古いものから新しいものへの移り変わりが説かれています。後半では、イエスキリストの死、埋葬そして復活と関係したテーマがいつも出てきます。教会は2000年の間福音を伝えてきました。その福音の中心は何でしょうかと問われたら、イエスキリストであると答えることができます。そしてイエスキリストの中心は何かと聞かれたら、十字架と復活であると答えることができます。実際ヨハネ福音書の約半分がイエス様がどのように死んでいったかが詳しく書かれています。

特に最後の一週間がもっとも詳しく書かれています。イエス様は過ぎ越しの祭りの時に十字架にかかられたのですが、きょうの高価なナルドの香油をイエス様のために捧げたというお話は過ぎ越しの祭りの6日前に起こったできごとでした。

先週お話したヨハネ福音書11章のラザロの復活の事件も、それがイエスの殺害計画のきっかけになったことが描かれ、イエスがお尋ね者になりイエスの捜索が始まりました。

11:56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」

11:57 さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。

さらに大勢のユダヤ人たちが生き返ったラザロを見ようとしていたので、祭司長たちはイエスだけでなくラザロの殺害計画さえもはじまりました。

12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。

12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。

12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

イエスは殺されることを恐れて過ぎ越し祭にはあらわれないだろうという大方の予想を裏切って、イエスはエルサレム郊外のベタニヤに現われました。

そういう死の危険がある緊迫した状態の中で、きょうのナルドの香油の話があり、この話もまたキリストの死へと結び付けられているのです。

ヨハネ12章1節を見てください。

12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。

ベタニヤはエルサレム郊外南東3キロのところにあるオリーブ山のすそのにある小さな村です。イエス様は、エルサレムの最後の時にベタニヤを根城とし、ここを拠点地としてエルサレムとベタニヤの間を毎日往復されたようです。他の福音書を見ますと、ホサナといって歓迎されてエルサレムに入城したあと、またベタニヤに戻ってそこで宿泊したと伝えられています。

実はナルドの香油の記事に関して、解釈上の問題があります。

マタイの福音書26章6節―13節とマルコの福音書14章1節―9節に並行記事があります。食事をしたのはライ病シモンの家であったと書かれていて、また「一人の女」がイエス様の頭に香油を注いだとなっています。

これに対して、ヨハネの福音書ではどこの家なのかは書かれておらず、マルタの妹マリヤ(ルカ10:39)がイエス様のに香油を塗り、「彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった」(ヨハネ12:3)と書かれています。いったい香油は足に注がれたのか、頭に注がれたのか、それとも頭と足の両方に注がれたのかという解釈上の問題があります。

またマタイの福音書26章とマルコの福音書14章にはそれがいつだったのかかが書かれていませんが、ヨハネの福音書にはそれが過ぎ越しの祭りの6日前であったと書かれています。

いったいこのマタイ伝とマルコ伝のシモンの家で行なわれた女の話とヨハネ伝のマリヤの記事は同じ事件なのか、それとも別の事件なのか、という解釈上の問題もあります。

さらにルカの福音書737節から50節には、パリサイ人シモンの家にイエス様が入ってこられ、そこに名前は書かれていませんがひとりの罪深い女がいて、その人が泣きながらイエス様の足に香油を塗った(ルカ7章38節)という少し似た話が出てきます。このルカの福音書の話は、別の話なのか、それとも同じ話なのかという解釈上の問題があり、さらにルカ伝に出てくるパリサイ人シモンは、マタイ伝マルコ伝に出てくるライ病人であったシモンとは別人物なのか、それとも同じ人物なのかという解釈上の問題があります。

あるリベラルな学者は、本来はこの女の人はイエスの頭に香油を注いだのに、ヨハネ伝記者は、ルカ伝の罪の女が涙を流しながらイエスの様の足に香油を塗って髪の毛でふいた話と混同している。つまりヨハネ伝記者は本当は頭に油を注いだのに、ルカ伝の罪深い女の記事と混同して、香油を足に注いだのだと間違え、さらに髪の毛でそれをぬぐったというルカ伝の別の話をここに持ち込んでしまった。だからヨハネ伝の歴史性は信用できないという説を出すリベラルな学者がいます。

ルカの福音書の罪の女が罪の許しを乞いに涙ながらにイエス様の足をぬぐった記事は、明らかにマタイマルコルカ伝とも違う話であり、ヨハネ伝とも違う話です。

ではマタイ伝マルコ伝の話とヨハネ伝の話は同じ話なのでしょうか、それとも違う話なのでしょうか?

あるいはマタイ伝マルコ伝だけ歴史的に正しく、ヨハネ伝は勘違いした作り話なのでしょうか?

結論からいいますと、マタイ伝マルコ伝とヨハネ伝の話はどう考えても同じ話です。

両方ともナルドの香油を注ぎ、両方とも香油は300デナリという高価な価値のあるものであり、両方ともこのことでこの女の人が責められており、両方ともイエス様がこの女の人を弁護しています。

マタイ伝26章マルコ伝14章の話とヨハネ伝12章の話がみな同じ話であることは疑う余地がありません。すると、ヨハネ12章の場面はライ病人シモンの家であったと言えます。ラザロは客の一人として宴会にいたことを印象づける書き方をしています。さらにマタイ伝マルコ伝では「一人の女」という書き方をしており、ライ病人シモンの家の者ではないかもしれません。もちろんひょっとしたら、シモンという人はイエス様にいやしてもらったライ病人で、マリヤとマルタの父親である可能性も残されています。

ですから結論を言いますと、マルタマリヤがシモンの家に食事の手伝いに行っていたか、それともシモンの家というのはマルタマリヤの家と同じなのかどちらなのかはわかりませんが、マタイ26章マルコ14章とヨハネ12章は同じ一つの話であります。

ではマタイ伝マルコ伝が香油を頭に注いだという話を伝え、ヨハネ伝はマリヤが足に注いだという違いはどう考えたらいいのでしょうか?マタイ伝マルコ伝ともイエスが香油を注いだ場所は頭だけではなく、体に注いだと書かれています(マタイ26章12、マルコ14:8)。

そしてマタイ伝マルコ伝ヨハネ伝とも、それは埋葬の準備をしたのであるとイエス様がおっしゃったと記しています。当時ヘブル人もローマ人も埋葬の時には香油を頭だけではなく体にも塗りました。ですから香油は頭だけでなく足にも注がれたと考えることはおかしいことではありません。ヨハネ福音書は、マタイ伝マルコ伝が言い残したことを補足したものと考えられます。

当時ユダヤの習慣では大切なお客様をお迎えする時には香油を使いました。香油というのはオリーブ油に香料を加えて作った効果な化粧品で、とても香りが高いものでした。この香料ですが、この時はナルドというインド産の植物からとられた大変高価な最高級品が使われました。

お客様を丁重にもてなす時に、花輪を客にかんむりのようにかぶせるだけでなく、頭に香油を注ぎました。この香油は300デナリの価値があったようです。1デナリは1日分の給料ぐらいの価値のあるものですから、300デナリというと300日分の給料と同じぐらいの価値のあるものでした。300日分の給料に相当するお金をイエス様のために使った時、イスカリオテのユダが文句を言いました。

12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。

もったいない。何故そんなに高価な捧げ物を捧げる必要はない、とユダは思いました。それはユダは貧しい人のことを心にかけていたからではなく、金銭欲があったからであり、貪りの罪、盗みの罪があったから捧げ物について文句を言ったのでした。

憤慨したのはユダだけではありませんでした。他の福音書を見ると、弟子達の何人かも、これを憤慨してとがめました。

「無駄なことをした。」

自分の中に捧げたくない、という惜しむ気持ちがあり、お金を捧げないで自分のものにしておきたいという気持ちがあったからでした。富への執着があったからでした。

ところがイエス様は、マリヤのやったことを高く評価しました。

マタイ26:13にそう預言されています。

26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。

26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

実際、マリヤがやったことはイエス様が誉めただけでなく、2000年の間、マリヤのこの行為がのべ伝えられ、世界中で福音宣教が行なわれる時に、いっしょにマリヤのことも模範として伝えられてきたのです。

マリヤは、ここぞという大切な時に大きなささげものをしました。

マリヤの行為が模範なのは、それがイエス様に対して捧げられたからです。イエス様を愛してイエス様のために自分ができる限りのことをしたことが、神に喜ばれる捧げ物となりました。無意識のうちにした献身的な行為が、イエス様に油を注ぎ、さらに埋葬の準備をするという神に喜ばれる記念碑的な価値をもつものとなったのでありました。

マルタとマリヤには人をもてなす心がありました。人に仕えようとする人でありました。ましてやマリヤにとっては、愛するイエス様のために大きな捧げ物をすることは、喜びでもありました。精一杯神の前でしたことは、人には喜ばれなくても、神はそのことを喜んでくださるのです。

 

ここぞと言う時に大きな捧げ物をする方がいます。そうやって神に仕える方がいます。

昔私はトロントでクライスラーのDaytonaという古い車に乗っていました。私はいつもBさんという日本人クリスチャンのメカニックを信頼して、そこで車の修理をしてもらっていました。私の運転していたそのデイト-ナという車は、Consumer ReportによればCooling Systemが大変よくない車でした。すぐにオーバーヒートを起す車でした。私も2回ラジエーターのHeater Coreを取り替えなければならなくなりました。それだけでなく、冷却液CoolantEngine Oilと混ざってしまうという致命的な問題が起こり、これで車の命それまでということが起こりました。

もう捨てるしかない状態になってしまいました。メカニックのBさんは、いいました。「もう捨てるか、エンジンを全部取り替えるしかないね。」彼は、私が次の車を買う余裕がないことを知って、私に言いました。

「エンジンを取り替えて上げるよ。」「いえ、わたしには今その修理費を出せません。」車のエンジンを全部取り替えると2000ドル以上の出費になります。彼は言いました。「これは私のプレゼントとして受け取ってください。」それから、彼は丸々3日かけて私のためにエンジンを全部取り替えてくださいました。

 大きな捧げ物をした方は、JCFでもかなりいます。名前は本人の希望で申し上げられませんが、ここにある新品のヤマハのグランドピアノはある方のささげものです。

 今年は、子供のデーキャンプを開催することが困難でした。働き人がなかなかみつからないだけでなく、家内がデーキャンプの最中にウインザーで金曜日に抗がん剤治療(Chemotherapy)を受けなければならなかったのです。今年はデーキャンプはなしにしようか、という話も出てきました。そういう窮状を知って、日本から貴重な休暇を犠牲にして、飛行機代も本人の自己負担でJCFRのために来て下さるというご夫妻が現われました。ご夫妻は言いました。「神様に示されてそう決めたことなんです。喜んでお手伝いをさせていだきます。」このご夫妻はデーキャンプが終わると、観光もせずにそのまま日本にお帰りになりました。今年のデイキャンプは人数が集まるかどうか危ぶまれていたのですが、参加者30人とお祈りした人数がぴったり与えられました、結果的に今までのなかで一番いいデーキャンプとなりました。神様は、こういう主のために捧げる心からの捧げ物を喜ばれます。

またある方が、聖地旅行のために使ってください、という指定献金がありました。家内と私があいついで母親をなくした時に、その方も母親をなくした時の経験があって、その方が充分親孝行できなかった分を神様に捧げたいという気持ちがその方にありました。

ある時マリヤのように大きな捧げ物をすることがあります。

でもこんなにたくさんささげてもったいない、というようなことはありません。神様はその捧げ物を喜んで受け取ってくださり、大きな祝福をもってその人に報いてくださいます。

捧げ物は、どう使うかということは大切なことかもしれませんが、それよりも、イエス様のために使おうとするかどうか、イエス様に自分のすべてを捧げる心があるかどうかの方がもっと大切です。

打算を超えて、イエス様のためなら何でもしたい、というその気持ちをイエス様は高く評価してくださるのです。

何の惜しげもなくイエス様のためならといって香油を捧げた態度、これは神に喜ばれる礼拝の態度です。日本人の倫理の中で、「宗教はいいけれどもほどほどに」という言い回しがあります。神に対するコミットメントをいいことだと考えどころか、反対にわるいことだ、深入りすべきでない、という態度があります。もったいない、無駄遣いだと考えるようなユダのような考え方があります。

でも聖書はその反対を説いています。自分を捨てて自分を捧げて主に仕えることを尊い生き方だと教えています。

マリヤはみ言葉に聞き入る人でした。そのマリヤは、イエス様が自分の兄弟ラザロをよみがらせてくださったことを目の当たりに経験しました。そして悟ったのでした。イエス様はよみがえりの主であり命の主であると。

そしてイエス様のためなら何でもしよう、イエス様のためなら自分の全てを捧げようという献身の思いへと導かれました。

 たくさん捧げたからいいとか、金額が問題なのではありません。イエス様のために自分のできることをする、イエス様のために最高のものを捧げるという心が大切なことなのです。

イエスの両親は、イエスが誕生した時に家鳩を2羽捧げました(ルカ2:24)。羊ではなかったのです。これはイエスの両親が貧しかった証拠です。

旧約聖書では、捧げ物は傷のないものでなければならないという厳しい規定があります。いらなくなった使い古しのものを捧げるのではなく、たとえ小さな小額のものであっても、最高のもの、一番いいものを捧げるようにという戒めであったのです。

私は、ヨハネ12章を使って大きな捧げ物をしなさいと説教しているのではないのです。そうではなくて、イエス様のために自分のできる最高のものを惜しみなく捧げる、その行為を神様は喜んでくださる、これがきょうの説教のポイントです。

さらに喜んで犠牲を払う人に対して、神の報いがあることが同じヨハネ12章に書かれています。

ヨハネ12章24節でこう書かれています。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

 一粒の種が地に落ちなければ、そのままです。しかし自分を種として地に投げ出し、自分をささげることによって、かえって大きな実を結ぶことができるのです。さらにもし私たちがイエス様に仕えるならば、神様は私たちに報いてくださると聖書が約束しています。

神様は私たちにただ10分の1を捧げることを要求しているだけではないのです。イエス様は、お金だけではない、時間だけではない、私たちの体全体、生き方全体を主に捧げるように私たちに要求しておられます。

ローマ12章1節で何が礼拝なのか、何を捧げるべきなのかが書かれています。

ローマ12:1を見てください。

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

この「体をささげなさい」という表現はトータルコミットメントとかトータルデディケーションと言い換えることができるでしょう。日本語ならば献身という言葉がふさわしい言い換えの言葉となりましょう。主は、私たちが自分の体全部をイエス様のために捧げるように、献身するように招いておられます。

ある人はピアノのスキルを捧げています。ある人は時間とスキルを捧げています。今教会の地下の台所のキャビネットを取り替える工事が行なわれています。ハンディマンが自分の時間を捧げて大理石のテーブルを作ったり、ガベージディスポーザーを取り付けたりしています。ある女性はかたずけや掃除のために時間をささげています。

先週はJCFのある方が、教会地下など3箇所の電気工事をしてくださいました。自分の時間とスキルをイエス様の体である教会のために捧げることも、マリヤのようなイエス様に捧げものをする立派な礼拝行為です。

 マリヤがイエス様を愛して、イエス様のために自分のできる限りのことをしたように、私たちもイエス様を愛し、自分の身を捧げて、イエス様にお仕えして生きていきたいものだと思っています。