2007年9月16日(日) 普喜幹治牧師による説教
ヨハネ12:12−19「ホザナ」(Hosanna)
12:12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
12:15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
12:16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
12:17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
12:18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。
12:19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
きょうは、プロのピアニスト田中友樹子さんをお迎えして、音楽礼拝をしています。ただ演奏を聞くだけではなく、神様を賛美することによって、神様に礼拝をささげたいと思っています。
賛美とは何でしょうか?賛美とは神をほめたたえることです。神様は素晴らしいとたたえることです。神様恵みをありがとうございますと感謝をもって神をほめたたえることです。賛美は、神の恵みに対する人間の側の応答であり、感謝の捧げ物とも言えるでしょう。賛美は礼拝の中で大切な位置を占めています。神様を心から賛美できたら、自分は礼拝できたと言ってもいいです。
音楽による賛美は、古代から礼拝の中で用いられてきました。そして教会音楽は、音楽史の中でも重要な位置を占めてきました。中世のグレゴリー聖歌からバッハ、ヘンデルそして現代音楽にいたるまで、教会音楽は音楽史の中でも大切な位置を占めてきました。バッハはLeipzigにあるルター派教会のSt.. Thomas教会の専属のミュージックディレクターでありました。田中友樹子さんが演奏して下さったバッハの「主よ人の望みの喜びよ」は、バッハのカンタータ147番にあり、第二讃美歌228番「心に主イエスを」に収められています。歌詞の意味をご説明するとこうなります。「こころに主イエスを宿している私たちは、日ごとに力をいただいています。主は愛をもって私たちを贖ってくださり、イエス様は自分の身を与えて私たちを救ってくださいました。主イエスは私たちの喜びです。悩みの時にも慰めてくださいます。主こそ私たちの希望です。宝です。だからどんな時にも主から離れません。」そういう意味の歌詞につけて作曲されたものです。教会音楽は、現代の音楽に対しても影響を与えています。ジャズやロックの歴史も元は黒人霊歌(Negro spiritual songs)から発したものです。きょうは音楽史のお話をするのが目的ではなく、ヨハネ12章から人びとがイエス様をホサナといって賛美したことについて聖書のお話をしたいと思っております。
私はJCFの礼拝でヨハネの福音書から連続講解説教をしていますが、きょうの箇所ヨハネの福音書12章13節にも讃美が載っています。
きょうの聖書の箇所の最初のところを読んで見ましょう。
12:12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
これは、イエス様がエルサレムに入城されるときに大勢の人が「ホサナ」と言って歓呼してイエス様を出迎えた時の賛美の言葉です。
12節に「その翌日」と書かれています。これはイエス様が十字架にかかる5日前の日曜日の時のことで、人びとがしゅろの枝を敷いてホサナと言ってイエス様を迎えました。そのことから、教会では伝統的にイースターの前の日曜日をしゅろの日曜日(パームサンデー)と言い、主イエスが十字架にかかるためにエルサレムに入城してくださったことを覚える時となっています。教会によっては、しゅろの葉を使って行列をするところもあります。
13節に「出迎える」という言葉があります。出迎えるとは、こちらからわざわざ出向いて行って会いに行くことです。元の言葉では、王侯や貴族など大切な方を出迎える時に使う言葉が使われています。みなさんも日曜日にわざわざ時間をかけて出向いて行ってイエス様を礼拝し賛美しにここにこられたわけです。私はみなさん一人一人がイエス様を心にお迎えして、心からの賛美をしていただきたいと思っています。
イエス様を出迎えてイエス様を賛美した人びとは、マタイ伝では群集(マタイ21:9)と書かれておりルカ伝では弟子たちの群れ(ルカ19:37)と書かれています。おそらく賛美の歌声は弟子達から始まり、ラザロの復活の証を聞いた他の大勢の群集もそれに加わったもの(ヨハネ12:17-18)と考えられます。
みなさんの中にも、イエス様の弟子、クリスチャンの方もいらっしゃいますし、まだクリスチャンになっていない方もいらっしゃるのではないかと思います。
ぜひここにいる皆さん一人一人が、イエス様を喜んで迎え、心から賛美する者になっていただきたいと思っています。
13節に賛美歌の歌詞が書かれています。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
みなさんは、さきほどリビングプレイズ19番の「ホザナ」という賛美歌を歌いました。英語ではホザナとにごりますが、元のギリシャ語ではにごらず「ホーサナ」と書かれていますこれはヘブライ語のホシアーナー、アラム語のホーシャナーが音訳されてホサナになったものです。これは詩篇118篇25節−26節からの引用の讃美歌です。ホサナは賛美の時に使われる言葉ですが、もともとの意味は、「主よ。どうぞ救ってください。」という意味です。そこから自分を救ってくれる救い主メシヤと出会うことを待ち望む詩篇となりました。
詩篇118篇25−26節を引用しましょう。
118:25 ああ、【主】よ。どうぞ救ってください。ああ、【主】よ。どうぞ栄えさせてください。
118:26 【主】の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは【主】の家から、あなたがたを祝福した。
118:27 【主】は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
この詩篇118篇は交互に歌う交唱歌(antiphon)、と言って、こっちの祭司や聖歌隊とそっちの祭司や聖歌隊が交互に歌ううたです。また祭司聖歌隊と行列の参加者が交互に歌う時もありました。
普通は仮いおの祭りの時に神殿の祭壇のまわりを柳やしゅろの枝をとって毎日「ああ、主よ、どうぞお救いください」と唱えて歌った歌でありました。
この118篇13節の「主の御名によって来る方に」は王なるメシヤをさします。それでヨハネの福音書でもルカの福音書でも「王」という言葉が注解として歌詞につけ加えられていることを記しています。
詩篇118篇26節に出てくる「来る人」は来臨される方、メシヤをさすと解釈され、自分たちのいる場所エルサレムに来られるメシヤを待ち望む歌となりました。
イエスの時代では、この詩篇118篇にこの解釈の言葉が付け加えられて、賛美歌が歌われていました。
ヨハネ12章13節だけでなく、マルコの福音書11章9−10節、福音書19章38節、にもの歌詞がもう少し詳しく書かれています。
イエス時代に歌われた歌詞を再現してみますと、このようになります。
「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。祝福あれ。
いま来た我らの父ダビデの国に。ホサナ。天には平和。栄光はいと高き所に。」
「イスラエルの王に」という言葉と「いま来た我らの父ダビデの国に。ホサナ。天には平和。栄光はいと高き所に」という言葉があとの時代に歌詞として付け加えられたものと考えられています。
ヨハネの福音書12章13節では、特にこの「イスラエルの王に」という言葉が強調されて書かれています。
いい歌詞であります。そして詩篇118篇のいい解釈の歌詞でもあります。
ところが問題は、詩篇118篇にはない「イスラエルの王に」という言葉のとらえ方であります。
現代のクリスチャンがイエス様を神の国の王として賛美する分には、「イスラエルの王に」というこの歌詞は何の問題もないでありましょう。
しかし当時のゆがめられたメシヤ待望思想の中でこの歌が歌われますと、問題がでてくるのであります。
この当時の人びとは、メシヤとは、イスラエルを外国の支配のくびきから解放し、さらには世界を支配する政治的な王としてメシヤを待ち望んでいました。
ダビデのような英雄的な王がエルサレムを救ううために現われ、軍馬に乗り、兵を率いて外国の軍隊と戦い、連戦連勝するような、そういう王様である救い主を待ち望んでいました。
前にも群集はイエスを自分たちの王とするためにイエスを無理やりに連れて行こうと企てたことがありました(ヨハネ6:6)。
第一マカベア書という旧約外典の13章51節にこういう言葉があります。
「シモンとその民は、歓喜に満ちてしゅろの枝をかざし、竪琴シンバル十二弦を鳴らし、賛美の歌を歌いつつ要塞に入った。イスラエルから大敵が根絶されたからである。」
昔イスラエルの独立戦争で、敵であるシリア帝国に勝ち、エルサレムに凱旋した時に、人びとは、しゅろの枝を敷いてシモンたちヒーローを出迎えたのでありました。メシヤ救い主と聞くと、人びとはこういう戦争に勝つ王のイメージを持っていました。
こうした誤ったメシヤ救い主のイメージを打破するために、イエス様はロバの子に乗って群集の中をエルサレムに入っていきました。
弟子達は最初は、何故イエス様が子ロバを使ったのか、その意図を理解できませんでした。
王様として入城されるのに、何であんな格好でデビューするのだろうか、その意図が分かりませんでした。
一流のピアニストとしてデビューするには、田中友樹子さんのようにカーネギーホールで満員の観客を集め、「パーフェクトだ」と評論家からいい評価の言葉、おほめの言葉をもらうのが一番いい方法です。
王様として名乗りをあげ、王様としてデビューするには、軍馬に乗ってさっそうと入城されるのが一番ふさわしい姿に見えます。
20世紀でも、第二次大戦中、天皇ヒロヒトが靖国神社に軍馬に乗りつけた様子が写真でもうかがえます。
ところで靖国神社には、今でも「下乗」と書いた立札が境内に掲げてあります。人びとはこの立て札にほとんど関心を払っていません。しかしこの木の立て札には意味があるのです。靖国神社は戦争の神社です。そこに天皇が馬で行進し、そこで馬から降りる場所がこの「下乗」と書かれている立て札の場所なのです。
王皇帝は馬で行動します。軍事的な王、皇帝の乗る乗り物は軍馬と決まっています。
それなのに、王様としてデビューしたイエス様は、何故ローマ皇帝のように馬に乗ってたくさんの護衛家来を従えて、格好よくさっそうと登場しなかったのでしょうか?
何故子ロバに乗って行進されたのでしょうか?
この謎に見えるロバに乗るという行為の中に、神の深い意図があったのです。
この写真はヨルダンとギリシャで撮られた写真です。
ロバに初めて乗りました、という人の体験が書かれています。とにかく歩くのが遅いというのがその人の第一印象でした。ロバに乗って戦争にいったら負けてしまいます。ロバは戦争では使えません。
ロバに乗った王は、戦争をしない王なのです。柔和なへりくだった、優しい王、これがイエス様なのです。
ヨハネ12章15−16節を見てください。
12:15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
12:16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
この12章5節の言葉は旧約聖書ゼカリヤ書9章9節からの引用です。
9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。
このゼカリヤ書9章に私たちを救うために現われる王のことが書かれています。ところがこの王は、当時の人びとが期待していた軍馬に乗った王ではなく、ロバに乗った柔和な王なのであります。この王は戦争をして独立を勝ち取る政治的な王なのではなく、戦争を廃止し、平和を来たらせる王なのです。
実際ロバは戦争には使われず、平和な仕事に使われます。
詩篇147篇10−11節にこんな言葉があります。
147:10 神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。
147:11 主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを【主】は好まれる。
神様がお立てになったメシヤ救い主はこの世にたくさんいる王や皇帝や独裁者や大統領とは違います。
天皇やヒットラーやサダムフセインとは違います。エリザベス女王やジョージブッシュ大統領とも違います。
神の国の王であるイエスキリストは、武力によって神の国を打ち立てる方ではないのです。地上的な国家の王ではないのです。たくさんの王や支配者の上に位置し、神として彼らを治め、彼らを正しく裁き、最後には武力をへしおり、平和をもたらしてくださる方なのです。
王の王イエスキリストは、政治的な活動に無関心な支配者なのではなく、天にいて政治家を裁き、政治家のたくらむ戦争を廃止し、ついにはあらゆる戦争を終わらせて平和の王国を打ち立てる平和の君なのです。
そして私たちの心に平和をもたらしてくださる方なのです。私たちを愛し、わたしたちに救いを与えて下さる柔和な王なのです。イエス様が私たちの心を支配する時に、平和が来ます。
そういう私たちの心に平和をもたらしてくださる柔和な王としてイエス様がこの世に来て下さったのです。
イエス様は救い主です。イエス様は、私たちの罪のために身代わりに十字架にかかって死んでくださいました。イエス様は私たちの罪を贖うことができる王の王、主の主です。このイエス様を心の中にお迎えしましょう。
今まで私たちの生き方は自己中心でした。心の王座は自分でした。「我」が心の王座でした。この我を捨てて、代わりにイエス様に自分の心を支配する王座に着いていただく、そして自己中心的な罪の生き方から解放される、これが救いです。
弟子達、群集はホサナと言ってイエス様を王としてお迎えし、イエス様を賛美しました。
私たちも、イエス様を心の中にお迎えし、いと高き所におられる王なるイエス様を賛美する生活に入りましょう。
一人一人イエス様を王としてお迎えするお祈りをしてください。
一人一人目をつむりこうべを垂れて祈りの姿勢をとってください。いっしょにお祈りしましょう。私はみなさん一人一人の救いのために祈ります。心を合わせていっしょにお祈りしてください。
「イエス様、あなたはこの世界を治めておられる神様です。今私たちは心を開いて、あなたを受け入れます。どうぞ私たちの心の中にお入りください。私たちはあなたに自分を明け渡します。私たちは自分の生涯をあなたに捧げ、あなたに従ってまいります。今まで私たちは自分のために自己中心的に生きてきました。これからは、あなたを賛美し、あなたの栄光を現すためにあなたのために生きていきます。どうぞ平和の主であるイエス様が私たちの心を支配してくださいますように。そしてイエス様が与えて下さる平和で心が満たされますように導いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。」