2007年9月23日(日) 普喜幹治牧師による説教

ヨハネ12:23−36「一粒の麦」(A Kernel of Wheat)

 

12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。

12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。

12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」

12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

12:34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」

12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」 イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

きょうの中心聖句は24節です。この言葉に注目しましょう。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

イスラエルでは、12月中旬から2月末にかけて先の雨と言われる大量のめぐみの雨が降ります。この時期に開墾をし、種を撒きます。麦の種はこの雨によって成長しはじめます。収穫は4月から5月に行なわれます。

種は土の中に埋められ、やがて芽を出し、水分と土壌と光と熱によって成長して実を結ぶようになります。

種を蒔くということは、蒔かれる麦の種の立場に立って考えてみますと、実を結ぶためには地に落ちて犠牲になる必要があります。自分自身を地に投げ出して、自分を捧げる必要があります。

実を結ぶためには、麦の種が地が地に落ちることが必要条件です。

イエスキリストはこういう自然の摂理をたとえで美しく表現しながら、神の摂理を説いていらっしゃいます。

まずこのみことばは、イエスキリストにあてはまります。つまり、一粒の麦とはイエスキリストをさします。一粒の麦が地に落ちるとは、イエス様がご自分を地上に身を投げ出して、犠牲となってくださったことをさします。その十字架上での犠牲の行為によって、多くの人がイエス様によって救われて、永遠の命を得ることができました。

イエス様は、王としてエルサレムに入城なさったはずです。

そして23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃいました。この栄光を受ける時とは、人びとから受け入れられ、戴冠式をして王座につ時ではなかったのです。イエス様にとって、栄光を受ける時とは、人びとから拒絶された時、十字架で死ぬ時だったのです。犯罪人とされて有罪判決を受け、みじめに十字架につけられて死刑になることは、栄光を受けることとは正反対のように思えます。十字架に付けられて殺されることは敗北に見え、栄光を受けることとは矛盾するように思えます。

十字架でつるしあげられて死ぬことは、栄光を受けることとは程遠いことのように一見見受けられます。

でも豊かな実を結ぶことと、一粒の麦が地に落ちて死ぬこととが矛盾することではないように、イエスキリストが十字架にかかることとイエスキリストが栄光を受けることとは矛盾することではなかったのです。

十字架こそこの世とサタンに対する決着をつける時、勝ち負けの形勢がはっきりつくときであったのです。

みなさんの中で、囲碁をなさる方はいますか?私はほとんどしないのですが、少し父から習ったことがあります。父とまともに囲碁をやっても相手にならないぐらい、父の方が上でした。でも父とゲームをしました。私はたいてい黒い石を使い、父は白い石を使いました。囲碁は実におもしろいゲームです。まるで神とサタンの戦争みたいです。相手を囲もうと思って、もう九分九厘成功したと思っていると、いつのまにか一枚上の相手が、その自分を囲んでしまって、あっという間に逆転され、ほぼ決着がついてしまう。相手を囲んだと思ったら、逆に自分が囲まれてしまった、ということが起こります。

ほぼ決着が着いてしまうと、あとはなんとか盛り返そうと思って血みどろの戦いをしますが、結局は勝負がついてしまっていて、そのまま負けいくさのまま終局を迎えます。

十字架の時は、神とサタンの戦いのクライマックスの時でした。サタンはイエスを十字架につけて勝ったと思ったのです。ところが神様はサタンよりも一枚も二枚も上手であり、十字架は神の勝利のどんでん返しの時であったのです。十字架は、私たちの罪を贖う時であったのでした。私たちの救いのための完全な贖いをする時、それが十字架の時であったのでした。

ヨハネ12章31節を見てください。

12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

十字架の時とは、この世を支配するサタンに対して致命傷を与えるときでした。

この世を支配する者が追い出される神の勝利の時、キリストの栄光をあらわすとき時でした。

キリストの十字架の時は、キリストの敗北の時ではなく、神の栄光を現す時でした。十字架の時こそ、救いの歴史の中心の時、最も輝かしい時となりました。イエス様が十字架に付けられたことは、全世界で覚えられ、キリスト教のシンボルマークにもなりました。世界中でイエス様がなされた十字架のみわざがほめたたえられています。全世界で行なわれる聖餐式は、このキリストの十字架の時を感謝を持って覚える時となっています。世界中のクリスチャンは、イエス様が、他のために自分を捧げた行為をほめたたえ続けています。復活して今も生きていらっしゃるイエス様に対する賛美は、やむことがありません。

キリストの死が、イエスキリストを信じる世界中の人間の贖いを完了した時となりました。イエス様が私たちのために自分を犠牲にしてくださいました。その十字架上でのうち傷によって、私たちはいやされ、私たちの罪が許されたのであります。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

このみ言葉はイエスキリストにあてはまると同時に、私たちにも当てはめて考えることができます。この一粒の麦は私たちとして当てはめて考えることができます。24節と26節の主に仕えることが関連したことがらとして語られています。

一粒の種が「そのまま地に落ちて死なないまま」の状態とはどういうことなのでしょうか?それはこの世的な生活に執着して、自分を第一として生きることをさします。利己的な自分、自己中心の自分の生活にとどまり続けることをさします。

自己保存の生き方をさします。自分を喜ばせるために、自分をとっておく生き方をさします。自分の快楽、自分の願望を最大の目標とするような生き方をさします。

自分を喜ばせるために生きる生き方をさします。

こういう生き方は、自己保全をはかっていて、いいように見えますが、我を押し通すきたない生き方なのです。他の人がまゆをひそめるような、生き方なのです。

結局ねたみや憎しみにとらわれて、罪に振り回されて、死に向かう生き方なのです。

これに対して、「一粒の種となって地に落ちる」とは他の人のために、自分を神に捧げることをさします。自分を捨てて自分の十字架を負って、イエスキリストに従って生きることをさします。自己保存ではなく、神のために自己をいさぎよく差し出す生き方をさします。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

「自分の命を憎む」とは、変な言い方だとは思いませんか。どういう意味なのでしょうか?「自分の命を憎む」とは自殺願望をさしません。これはヘブライ語独特の誇張法です。どちらを選ぶか選択する時に使う言葉です。選択する時に、片方を愛し、片方を憎むという表現を使います。たとえば神に仕えるか、富に仕えるかという二者選択をする時に、片方を愛し、片方を憎み(マタイ6:24)という言い方をします。ユダヤ人が片方を愛し片方を憎むと言った時には、これは決定的にどちらが大切か価値判断をして、選択する時に使う表現なのです。選んだ方を愛すると言い、選ばない方を憎むというわけです。「憎む」とは「捨てる」ということと同じことです。

自己中心の生き方を捨てて、神に自分を捧げる方を選択することの強い表現です。

「自分の命を憎む」とは、自分を第一として自己保全を図る生き方をきっぱりと放棄して、神に自分の身を全部捧げてキリストに従っていくことを選ぶことをさします。

自分を第一として生きないで、神を第一として生きると実を結ぶことができます。この方がかえって得をするのです。

我を通すと、人から嫌がられ、みにくく映ります。でもだれかのために何かのために自分を捧げて生きていますと、その生き方は美しく映り、尊敬され、信用を勝ち得ることもあります。

イエスキリストは二つの間の選択を私たちに迫っています。そしてイエス様を選んだ場合に、神は報いてくださると約束しています。

12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます

自分の快適な生活だけを追い求めて神様を無視して自己中心に生きていきますと、かえってそれは死に向かう生き方となります。

でも反対に自分の我を十字架につけて、イエス様の弟子になって、自分をイエス様にささげますと、永遠の命に預かり、神様から大きな報いを受けることができます。

神様にお金も時間も自分の能力も自分の体もみな捧げてイエス様に従っていきますと、損なように見えるけれども、かえって神から大きな祝福を受けることができます。

一粒の麦が地に落ちるとは、他のために生きることをさします。それは伝道のために自分をささげることを含みます。

伝道のために身を捧げて生きますと、それは人生の中で実を結ぶことができます。

伝道をしたために迫害を受けて殺されるということになりますと、その人生は一見無駄で損であるように見えます。でも迫害や殉教があるところで、教会は強くなり、大きな実となります。

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イエス様は、自分の命、自分の地上的な生活、自分の利害とキリストとどちらが大切なのか、私たちに選択させようとなさっています。

自分を中心にして生きる生き方を選ぶのか、それともキリストを中心にしてキリストに仕えて生きる方を選ぶのか、選択させようとなさっています。

自分を一番大切に考え、キリストのことはニの次、三の次にする方が人間的に考えると一見得のように見えます。礼拝に出るより、レジャーをして楽しんだ方が得、仕事の方を優先するほうが得のように思う人がいます。

あまり神のこと聖書のことに深入りするより、少々浮気したり快楽に身を委ねることの方が得であるように思う人がいます。

献金するよりその分を旅行や車に使う方が得に思う人がいます。

困っている人を助けるよりは、自分を豊かにすることに時間とお金を使う方が得に思える人がいます。

でもそうやっている間に、肝心のイエスキリストに仕えるということを見失い、結局自分を見失い、罪の生活に陥ってしまうと、神からの報いを受け損なってしまうことになるのです。

そうではなく、自己中心の生活に縁を切り、

キリストの僕になり、自分を主に捧げることによって、かえって永遠の命を与えられ、自分が生かされ、自分を通して実を結ぶことができるのです。

自分の命に固執している者が命を失い、反対に自分の命を主のために捧げる者が永遠の命を得るという逆説的な真理が描かれています。

ある人は、キリストよりも大切にしている何かをまだ持っています。

ある人は自分の情欲を捨てきれないでいます。ある人は捧げたくない、だれにも渡したくないという金銭欲の奴隷になっています。ある人は虚栄心を捨てきれないでいます。

ガラテヤ書5章24節に自分の肉を十字架につけるという表現があります。

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

みなさんの中でキリストよりも大切にしているもの、捨てきれないものはないでしょうか?もしあったならば、それを捨てて、十字架につけてしまいましょう。

そして一粒の麦となって自分の体を神に捧げ、キリストに仕える生涯に入りましょう。

そうすることによって、かえって自分が生かされ、神から報いを受けることができるのです。