2007年10月7日(日) 普喜幹治牧師による説教

ヨハネ12:35−50 「イザヤの見た栄光」 (The Glory That Isaiah Has Seen)

 

12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」  イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

12:37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。

12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。

12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」

12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。

12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

12:44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。

12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。

12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

12:47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。

12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

 

イエス様が福音を伝えておられたころ、ユダヤでは4種類のタイプの人がいました。

第一が未信者です。未信者(non-Christians)とは、まだイエス様を救い主として信じていない方です。その人たちに対するメッセージが35節36節にあります。

第二のタイプの人が不信者です。不信者(unbelievers)とは、光につきあたったが、光よりもやみの方を愛し、イエスキリストを拒んで不信仰に陥った人をさします。

何故不信者が出るのか、それはたまたまなのか、それとも神のご計画によってなのか、ということが37節から41節までに語られています。

第三のタイプの人が隠れキリシタンです。弱いクリスチャンです。自分の栄光を求めるあまり、はっきり公に信仰を告白できないタイプの人です。それが42節から43節に描かれています。

第四のタイプの人がイエス様を信じる信仰者です。やみの中を歩く者ではなく、光の中を歩く者です。それが44節と45節に記されています。

皆さんは今どのタイプの人ですか?未信者ですか、不信者ですか、隠れキリシタンですか、それとも光の中を歩む信仰者でしょうか?

皆さんはこれからどのタイプの人になりたいですか?

未信者のままですか?不信者になりますか?隠れキリシタンになりますか?それとも光の中を歩む信仰者になりたいですか?そういうと今日のメッセージの結論が出てしまったような感じですが、もうすこし詳しくお話しましょう。

第一の未信者に対するメッセージを読んでみましょう。

35節と36節を見てください。

12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」  イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

イエス様はまだイエスを信じていない人に対して招いていらっしゃいます。

「光の子供となるために、光を信じなさい。」

35節に「しばらくの間」と書かれています。イエス様と出会うことができる機会はいつまでも続くわけではありません。それは「しばらくの間」だけです。イエス様はこのあとすぐに一週間もしないうちに十字架に付けられることになるのです。一般の人たちにとって、この時がイエス様の説教を聞く最後のチャンスでありました。イエス様のメッセージを直接聞く機会はしばらくの間だけでだったのです。

私たちがイエス様を信じることができる機会もしばらくの間だけです。私たちはいつ死ぬかわかりません。一ヶ月後には自分の命がないこともありえます。イエス様を信じることができる機会は、いつまでもというわけではありません。機会は「しばらくの間」だけです。

私は高校2年生の時に教会に通い始めました。その時にある若い女性が私に一冊の本を持ってきてくれました。その本の題名がきょうの36節からとった「光のある間に」という本でした。その本をくれるのかと思ったら、「貸してあげるから読んだら返してください。そしてその内容についてどう思ったか聞かせてください。」と言われました。「もしあげたらあなたは読まないかもしれないから貸してあげるだけです。」と言われました。私は、「何だ、押しつげがましく本を読めなんて言ってきて。」と思いましたが、相手はきれいな女性だったし、それで読むと約束させられてしまって、しぶしぶ読み出しました。本の内容はこうでした。今は世の終わりの時、再臨の直前である、再臨が12時だとすると、今は11時45分である。あなたがイエスキリストを信じて永遠の命を得るチャンスは光がある間だけである。今は福音が伝えられているめぐみの時、救いの時である。けれども、光のないとき、どんなに救いを叫んでも救いが与えられない時が来る。もしあなたが死んでしまったら、もう福音を聞いて救われることはできない。もしイエス様が再臨されたら、その時はもう手遅れである。あなたはあす死ぬかもしれない。あした再臨があるかもしれない。「光のある間に、光の子供となるために光であるイエスキリストを信じなさい」本はそういう内容でした。

本当かなと思いながら、牧師さんにいただいたヨハネの福音書の分冊を読んで行きました。全部ヨハネ伝を読み終わった時に、私はイエスキリストを自分の救い主であると信じる決心を一人でしました。そして自分でその福音書にサインをして日付を書き込みました。1967年10 月3日と書きいれました。

この女性は、私が全部本を読んでイエス様を信じたことを知ると、その人は私にこう言いました。「あなたにその本をあげます。」「何だ。はじめからくれるって言えばよかったのに。」と私は思いました。でもすぐに思いました。「なるほど、本を読ませたいために、貸してあげると言ったのか。なかなか賢いやりかただな。」

とにかく私はヨハネの福音書に書かれていることが真理だということを悟ってイエス様を信じる決心をしました。未信者だった私がクリスチャンになりました。

36節に書いてあるように、イエスキリストは啓示の光です。真の光です。ですからイエスキリストを信じる者は光の子供です。これに対してまだイエスキリストを信じていない未信者は、光であるイエスキリストとまだ出会っていない者です。闇の中を歩んでいる者です。闇の中を歩んでいる者の特徴は、自分がどこへ行くのか、わかりません。死んだらどうなるのか分かりません。人生の目的もはっきりしません。何のために生きるのか知らないでさ迷っています。

未信者はまだ神との正しい関係をまだ持っていない人です。まだあるべき位置にまだいない人です。聖書はこれを失われた人といいます。

全ての未信者は、光あるうちに光を信じて光の子供となるように招かれています。光の子供になるための条件は、イエス様がまことの光であることを信じることです。

イエス様を信じて、ノンクリスチャンがクリスチャンになって救われるならば、これは素晴らしいことです。でも福音を聞いて不信仰になり、益々心がかたくなになって不信者になる者もいます。

福音を聞くと、未信者が二つのタイプに分かれます。不信者になる人と信者になる人に分けられていきます。正確に言うと三つのタイプの人にわかれます。不信者になる人と、信じてはいるけれども世間をはばかって公に告白しない人、それから光の中を歩む信者です。

37節から41節にイエスキリストを拒んだ人のことが書かれています。

37節から41節を読みましょう。そして第二のタイプの人、不信者についてお話をしましょう。

12:37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。

12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。

12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」

12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

38節の言葉は、イザヤ書53章1節からの引用です。

40節の言葉は、イザヤ書6章1節からの引用です。

光であるイエスキリストが世に来たにも関わらす、イエス様が拒まれたことが書かれています。そして人びとが不信仰になり、イエス様を拒んだことは偶然に起こったことではなく、旧約聖書に預言されていたことであったのでした。ですから、人びとが不信仰になり、イエスキリストを拒んだことは驚くにはあたらない、とヨハネ伝は伝えています。

さらにおもしろいことに、ヨハネの福音書は、イザヤはイエスの栄光を見たのだと記しています。イザヤが神殿で神様と出会い、聖めを受け、神の言葉を語るように言われた時に神殿で見た神の栄光は、イエス様の栄光だったのだと言っています。そして神の言葉を語れば語るほど、人びとは頑なになって、人びとの罪のためにますますかたくなになって行くことが預言されています。それはイエス様を拒むことの預言でもあったのです。

不信者とは、イエスキリストの啓示の光に触れたにも関わらず、頑なになり不信仰になって意識的にイエスキリストに反抗し、イエスキリストを拒む人です。

行いが悪いために、光よりも闇を愛した人です。

ヨハネ3章18−20節にこう書かれています。

3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

つまりひそかに行なっている口にするにも恥ずかしいことや汚れた思いの方を愛して、それに安住するので、イエスキリストを信じ受け入れることができないのです。

自分のきたなさを認めて、それを神の前で明るみに出して罪あるものと認めることができないので、闇の中に生きる方を選んでしまうのです。光に背を向けると、ますます自分の影を踏んで歩むことになります。そしてますます自分は闇の中を歩む暗い生き方をすることになります。心は神から離れれば離れるほどますます暗くなっていきます。

さて、ヨハネ12章38節の言葉はイザヤ書53章1節からの引用です。

ちょっとそこを1節から6節まで引用してみましょう。

53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。

53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

ここは苦難の僕(suffering servant)の歌のクライマックスであり、イザヤ書の中心でもあります。ご承知のようにこれはイエスキリストが十字架にかけられる場面の預言です。「私たちの知らせ」とは福音をさします。福音の知らせを多くの人が信じませんでした。その人間の不信仰が救い主を拒絶し、人間の不信仰がイエスキリストを十字架に付けたのです。

救い主を拒絶することは人間の意志ですが、神がそのことを承知の上で人間のなすがままに任せたのでした。

人間の心があまりにもかたくななので、神様はそのままほったらかしにされたのです。すると救い主を十字架につけて殺すということが起こったのです。

人間の罪が、罪のないイエスキリストを殺すという狂気に走らせてしまったのです。しかし神様はそうなることをはじめからご承知で、反対に人間の狂気を用いて贖いの業を完成し、神の栄光を現したのでした。

イエスキリストに対する不信仰は偶然ではなく、神は人間の不信仰を用いて神のご栄光を現されたのでした。

聖書が成就するために人間が不信仰になっても驚くには当たらない、これがヨハネ福音書がいわんとしていることなのです。神の恵みが働かないと、結局人間はみな未信者から不信者になっていくのです。

ヨハネ12章39節から41節を見てください。

12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。

12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」

12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

これはイザヤ書6章10節からの引用です。

6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

神の言葉を語れば語るほど人びとの心がかたくなになっていくことがあります。神様がほっておかれ、人間がなすがままに任されると、結局人間はますますかたくなになり、神の言葉に耳を傾けなくなってしまうのです。

イザヤの時代でも、人びとはイザヤの語る神の言葉を聞けば聞くほどかたくなになっていきました。

イエス様の時代でも、イエス様の語る神の言葉を聞けば聞くほどかたくなになっていきました。

今の時代でも、福音を聞いてますます心を頑なにしていく人がいます。

人間の罪は、結局イエス様を十字架に付けるにいたるのです。イエス様を受け入れることができるとしたら、それは自分の力ではなく、特別な神様の恵みの力が働いたからなのです。

人間は神のめぐみがなければ、みな不信者になり、イエス様を拒んだままになってしまうのです。

ヨハネ福音書12章42節と43節に隠れキリシタンの話が出てきます。

12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。

12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

ニコデモが隠れキリシタンの典型です。彼はパリサイ派の人であったので、信仰を公に告白することをはばかっておりました。

イエス様を信じていることを公にすることができずに、クリスチャンでることを隠している人は結構日本人に多いです。

日本人はまわりの目を気にする国民です。神からの栄誉よりも人からの栄誉の方をより大切にすると、隠れキリシタンになってしまいます。皆と違った生き方をしていやな目にあうよりも人とうまくやる方を選ぶと信仰をはっきり告白できなくなります。仲間はずれにされたくないとおもいます。それで世間をはばかって信仰を公にしてバプテスマを受けようとしない人もいます。クリスチャンであることをかくして生きる人もいます。

家族の反対を押し切ってまで、イエス様を信じますと言えない人もいます。

イエスキリストを告白しないで、楽な生活に安住してしまう人もいます。

クリスチャンであることを恥ずかしがって、はっきりとイエス様を信じていますと言えない人もいます。

バプテスマを受けて信仰を公に告白すると、家族の反対にあうので、隠れたままにしている人もいます。

お墓の問題や葬式の問題、位牌を拝むかどうかで、結局、家族の反対に合いたくないという理由から、信仰を公にできない人もいます。

ここで人にあわせて神に不従順である方を選ぶのか、それとも人間としての模範を示されたイエス様のように人から拒絶されても神に従順である方を選ぶのか、どちらなのかが問われています。

神からほめられることを選ぶのか、それとも人から誉れを受ける方を選ぶのか、どちらなのかが問われています。

神よりも現世の人間関係を選ぶのかどうか、それとも神を第一とするのかどうか、が問われています。

最後にイエス様をはっきり信じる信仰者の話をします。

44節―45節を見てください。

12:44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。

12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。

12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

 

イエス様を信じる者は、イエス様を遣わした神様を信じている者なのです。父なる神様がイエス様を遣わしました。キリストを信じることと神様を信じることとは等しいことなのです。イエス様を信じている者は、真の神様を信じていることと同じなのです。

さらに父なる神様はイエス様をお遣わしなさり、私たちもその証人としてイエス様から遣わされているのです。

またイエス様がどんな方なのかが分かった者は、神様がどんな方なのかを理解できたことに等しいのです。

イエスキリストを信じた者が、真の神様と正しい関係を回復した者であると言えます。

さらにイエス様を信じた者は闇の中にとどまっていないで光の中を歩んでいる者です。

ここにいるみなさん一人一人がイエスキリストである光の中を歩む生き方を是非ここで確立していただきたいと願っています。

最初はだれでも未信者です。でもきょうみ声を聞いたならば、心を頑なにしないで、不信者にならないで、はっきりイエスキリストを救い主として告白する生き方をしていただきたい。そして信仰を公に告白して、バプテスマを受けて、クリスチャンとして堂々と歩んでいただきたい。

そしてイエス様を信じて真の神様との正しい関係をしっかり確立していただきたい、と願っています。